宋常星『太上道徳経講義』(20ー12)

 宋常星『太上道徳経講義』(20ー12)

自分一人は他人と異なり、「母を食べる」のを大切にしている。

「異なり」とは同じでは無いということである。道は万物の母である。そうであるからここでは「母」とある。道は道であり、徳は徳、失うは失うであって、誰と誰で違っているということは無い。そうであるなら「自分一人は他人と異なり」とはどういうことであろうか。人は道によって生まれている。物も道によって成り立っている。つまり道も人も同じなのである。ただ人が自分を道と同じとは思わないことがあるに過ぎない。「自分一人は他人と異なり」とは「他人」が道と同じではないと思っているからである。「他人」が道と同じと思っていないのは、「母の気」を食べていないからである。「他人」がよく道を体すれば、君臣でも、父子であっても、またどのような物でも、ことごとく道でないものはないことが分かる。つまりこれが「母の気」を食るということであり、これは嬰児が母乳を飲むのと同じである。「母乳=母の気」を食ることができれば、性命は全ったきものとなる。もし得ることができなければ、性命を保つことは困難となる。これが「食母の道」である。どのような人の性命であっても「自分」と違うものではなく、万物と言えども違うことは無い。「自分」の貴ぶのは、「他人」もまた貴ぶものである。「自分」が得ているものは、「他人」も得ている。天地、人、物、これらは混然一体であり一なる母の子なのである。善悪も同じ心より発している。「分かりました」も「嫌だ」も同じで、「何でも分かっている(昭昭)」ことも、それが使えないのも変わらない。「細かなことまでよく吟味をしている(察察)」のも、それが用いることがないのも変わりはしない。異なるものでも、道においては同じで無いものは無い。この章では深く「食母」を重視している。「食母」の意味が分かれば、どのような環境にあっても、楽しく居られないということは無い。行おうとして行い得ないことも無い。どのような人であっても、最も適切な状況に居て、何ものにもとらわれることが無い。そして「食母」を得たならば、またそこから離れて行くのである。


〈奥義伝開〉ここで「食母」という奇異な表現が突然出てくるが、こうした意味の明らかでない言い方を老子が出して来る時は、古くからの格言や信仰によることが多く、その真義を明らかにしようとする。「食母」は大地母神のようなもので、地上に植物の繁殖をもたらしてくれるような生命力の象徴である。こうした大宇宙の中の大地母神としての「食母」と同じものを我々個々人が持っている。そうであるから人は成長して死んでいく。この世のあらゆるものが等しく、そうなっているのは、生きとしいけるもの全てが「食母」を持っているからに他ならない。あらゆる存在は生まれ、変化をして滅んで行く、その原動力となっているのが「生命力=食母」であり、こうした生まれてから滅ぶまでのプロセスを「道」という。


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