宋常星『太上道徳経講義』(20ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(20ー2)

学ぶことを止めても心配は無い。

昔から今に至るまで聖人や賢人は少ない。ここで「学ぶ」とあるのは、こうした優れた人の学びではない。ここに「学ぶことを止めても心配は無い」としているのは、無駄なことを見たり聞いたりすること、下らない思いつきなどは無益であり、かえって害になることを言っている。また物欲、性欲などは学ぶ必要が無いわけで、けっして学問それ自体を否定しているのではない。もし、学んでよく性命の詳細な理を悟ることができたなら、よく陰陽の働きの道を悟ることができたなら、それを学んで実際に修行するべきであろう。そうして私欲を捨てて、天の理のままに生きることを学び実践する。天地の働きを妨げることのないようにして、国が栄え安泰であるようにする。こうしたことはまったく本当の儒教や本当の仙道を学んだ聖者にしてよく行うことのできるものであって、これもすべては学ぶことによって得られるものである。しかし、もし無益な学びをしたならば、かえってそうした境地に入ることの阻害となるし、悪くすれば邪な道に入ってしまうことにもなりかねない。そうなれば誤った考えにとらわれて、完全に正しい道を見失うことになる。学ぶことで目先の利益を得ようとすると、かえって害を得ることになろう。これはあらゆる学びに共通している。そうであるから「(誤った学びはそれを)学ぶことを止めても心配は無い」としているのである。


〈奥義伝開〉学ぶことで何らかの利益が得られるように思うが、老子はそればかりではないとする。通常の価値観と反対の価値を見出すことがあらゆる事象において可能であると教えるのは老子の基本的で、ここでも学ぶことを止めても不利益となるとは限らないとしている。人は必要なだけの情報を得れば良いのであって、それ以上の処理しきれない程の情報を得てもかえって混乱してしまう。また得られた情報の全てが正しいとは限らない。誤った情報が多く混入してしまうとかえって真実が見えなくなってしまう。情報は最小限で、それをよく吟味することこそが大切なのである。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)