宋常星『太上道徳経講義』(20ー9)

 宋常星『太上道徳経講義』(20ー9)

多くの人は何でも分かっている(昭昭)ように振る舞うが、自分一人は何も分かっていない(昏)でいる。多くの人は細かなことまでよく吟味をしている(察察)が、自分一人は何も分かっていない(悶悶)ようである。

「何でも分かっている(昭昭)」とは、いろいろなことを理解しているということであり、多くの事柄に渡って考えを巡らせているということである。「何も分かっていない(昏)」とは視覚や聴覚を収斂させて、外的な事柄をよく見聞きしていないような状態にあることである。「細かなことまでよく吟味をしている(察察)」とは、自分の考えを巡らせて、細かなところまでよく見ているということである。「何も分かっていない(悶悶)よう」とは、徳を見て物にとらわれないことで、ただ徳だけに純粋にかかわって他に関心を持とうとしない様子のことである。ここでは「多くの人は」として、全く愚かな人の心のあり方を言い、これが世間一般の俗人とされる人たちの考えであるとする。それは常に功名や財産を求めていて、それが満たされないとむやみに私欲による怒りの気持ちを抱くものである。また他人と比べてみたり、是非を殊更に論じてみたりして、その心は思い込みや勘違いから逃れることができない。ただ名誉や利益を求めるだけの俗人を「何でも分かっている(昭昭)」とするならば、老子は「分かっていない(昏)よう」ということになる。俗人は「細かなことまでよく吟味をしている(察察)」としたなら、老子は「何も分かっていない(悶悶)よう」ということになる。これらは老子と俗人の心が違っているということを述べているもので、人によってはそうではない人も居ることであろうが、ここではこうした言い方をしている。


〈奥義伝開〉「昏」や「悶悶」は老子の静坐の秘訣といえよう。「昏」は日暮れを示す形から生まれた字で、暗い意識状態をいう。そして何も考えられないような愚かなことをいうこともある。これは静坐の観点からすればひとつの考えにとらわれない状態といえる。静坐はヨーガや禅のように集中を求めない。ただぼーとしていれば良い。暗い闇の中に沈んでいるある種の渾沌とした意識状態のままで良いのである。また「悶悶」の「悶」は「心」が「門」の中にあって出てこられない状態を示している。心に思うことが言い出せないので悶々とするのであるが、ここではこうした現代の日本で使われる意味ではなく、思いを外に出さない、つまり内的な思考に沈潜している状態をいっている。これは「昏」と同じである。深く自己の内面をただ見つめていることの大切さを教えているのが「昏」であり「悶」である。


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