宋常星『太上道徳経講義』(20ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(20ー5)

乱れている(荒)としても、それで終わりということではない。

「乱れている(荒)」とは心に徳を修していないからである。これは田が荒れるのと同じである。「終わりということではない」というのは最終段階ではないということである。「荒れているとしても」とあるところは、「分かりました」「嫌だ」という言葉を発した時と同じで、善悪が生じている。「分かりました」は善意から発せられているのであり、「嫌だ」は嫌悪から発せれれている。もし努めて善意を取ること無く、また嫌悪を断つことが無ければ、自分勝手な思いが強くなり、欲望が肥大化してしまうことであろう。強引、悪辣な行為が横行することとなろう。そうなれば日々、荒れて行き、それは際限のないものとなる。そして自らの心身を傷つけてしまうまで止むことが無い。そして最後には正しい天の理に戻ることもできなくなってしまう。この「荒れているとしても、それで終わりということではない」との一節には老子が世を救おうとする深い心がある。


〈奥義伝開〉整わない状態がけっして悪いとは限らない。それは多くの変化の可能性を有している。一般的には規格化した方が合理的と考えるが、それでは自由さが失われてしまう。宋常星は乱れていることを否定的にとらえているが、これは好ましくないであろう。人は心が乱れるから何かを求めようとする。この時にうまく修練の道に入ることができれば幸運であろう。大体において人は何も無い時には深く考えることをしない。危機的状態になって初めていろいろと考えをめぐらせる。その時こそが修行に入る良い機会となる。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)