宋常星『太上道徳経講義』(20ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(20ー7)

自分はただ一人で静かにして(泊)いて動く気配さえも無い。それはいまだ大きくなっていない嬰児と同じであり、動こうとして動くこと(乗乗)のない状態でいる。

「静かにしていて(泊)」とは、こだわりが無い状態のことである。「動く気配さえも無い」とは、動こうとする思いさえも浮かんでいないということである。「嬰児」とは、まだ大きくなっていない子供のことである。「乗乗」は動こうとして動いていない時のことで、「帰るところがない」とは、渾沌の中に一切のことを忘れている様子である。つまりこれは心の働きが無く、決まった動きも見られない状態であり、結局は確固としたものが存していないわけである。ここに述べられているのは、一般の人の貪欲さがいまだ発現していない状態であり、自分一人がそこに留まっているとしている。貪欲さがいまだ発現していないが、発現しそうでもあるのは世の人々と同様の価値観にとらわれているからである。貪欲さが発現することが無いのは、老子のように道をこそ価値あるものと認めているからに他ならない。道の味わいは深く、どこにあってもそれを味わうことができる。しかし世間の人と同じ価値観に立っていると、あらゆる場面で満足することはできない。そうなるとそうしたことを断ってしまおうと切に思うようになるものである。無欲であり無為である、その妙味はいまだ成長していない嬰児と同じで、何の知識も認識も無い、考えることも思いを抱くことも無い、ただ母乳を欲しがるだけで、世俗の欲望を知ることもない。老子は道を味わうことで充分として、世間の価値観と交わることが無かったのであり、これは嬰児と同じである。そうであるから「それはいまだ大きくなっていない嬰児と同じ」としている。そして「乗乗」とは、兆しもない時のことで、それは何も為されていないようでもあるし、何かが為されてしまっているようでもある。こうした心の徳の妙は、その跡を残すことは無い。形を為すことも無く、一定の形になることも無い。それは、決まった働きをすることもないとも言えよう。そうであるから「乗乗としていて決まった働きをすることもない」とある。人は思いが生じる前の段階でこそ道の味わいを知ることができるのであり、これが「静かにして(泊)いて動く気配さえも無い」という時である。無欲、無為で、思いも考えも無い。つまり成長していない嬰児と同じなのである。言語が用いられることも無いし、何かをしているわけでも無い。つまり「動こうとして動くこと(乗乗)のない状態でいる」という状態である。それは「分かりました」と「嫌だ」が発せられるその前でもある。こうした微妙なところに違いが生まれているのは明らかなのであるが、一般の人は知らないし、鬼神であってもこうしたことを知ることは無いであろう。


〈奥義伝開〉ここでは「泊」「乗」「嬰児」などの静坐の秘訣が明らかにされている。「泊」の「白」は「迫」の意であり、静かに船が岸に近づく様子とされる。これはまさに静坐で意識が統一される瞬間の感じと同じで、殊更に集中しようとしなくても、ただ静かに坐っているだけで、ある時機を迎えると、「すうーっと」と統一状態に入ってしまう。「乗」は両手、両足を開いた様子で、木にはりつけられている形から生まれた字である。両手、両足が開いているのは、全身に気が通っていることを示しているのであり、木にはりつけられているのは背骨が立っていることを意味する。背骨が立つことで上への気の流れが生まれ、それはまた下への流れを導く。「嬰児」は生まれたままの状態であり、本来の自分に返った状態である。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)