宋常星『太上道徳経講義』(20ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(20ー4)
他人が畏れるからといって、自分も畏れる必要は無い。
先には善と悪との違いについて述べられていたが、ここでは善悪の間にあるものについて述べている。それは「畏」であることは言うまでもあるまい。「他人が畏れるからといって、自分も畏れる必要は無い」とあるのは、つまり他人が畏れているからといって、むやみに自分も畏れる必要は無いということである。つまり他人が畏れていること、自分が畏れることとは関係がないということなのである。それはどういうことか。ここに善悪を知る鍵がある(善も悪もそれが行われてから喜んだり畏れたりすれば良いのであって、それが行われる前にあっては何らの思いを抱く必要もないわけである)。「嫌だ」「分かりました」と応じる(のも同様で)、それが口に出る前には善も悪もそこには無い。つまり畏れるべき何ものも無いのである。しかし「嫌だ」「分かりました」が口から発せられたなら、そこには善意や嫌悪が明らかとなる。そうした時に畏れ注意することが無ければ、災いや辱め、理不尽なことの害を受けることになる。
〈奥義伝開〉ここでは無闇な同調の危険について指摘する。こうしたことが起こるのは物事を深く考えていないからである。先の二つでは「量」や「質」において思考の転換が求められていたが、そうした俯瞰的な視点を得ることで他の人の言うことに流されなくなることを老子は教えている。それはまた合理的な考えを持つことでもある。よく試験を受けてから合否の発表を心配する人も居るが、こうした心配はしても仕方のないものである。また自分の望むところに合格してもそれが将来的に幸福かどうかは分からない。老子は合理的に考えて畏れる必要のないものを多くの人は畏れている、と教えているわけである。