宋常星『太上道徳経講義』(20ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(20ー3)

「嫌だ」ということと「分かりました」ということの差はどれくらいあるであろうか。「悪い」ことと「善い」こととの違いはどれくらいあるであろうか。

「分かりました」というのは、相手の言うことに対して応じて謹んで承諾をしようとするときに発せられる言葉である。「嫌だ」というのは、憤然として拒否する場合の言葉である。「分かりました」と「嫌だ」の違いを詳しく見てみると、これらは共に口から発せられている。等しく相手の言うことに応じて発せられた言葉である。ただ、その発せられた言葉の意味は全く違っているが、声を発していることについては違いはない。そのため「『嫌だ』ということと『分かりました』ということの差はどれくらいあるであろうか」とあるのである。つまり「嫌だ」と言うのと「分かりました」と言うのとでは、発声をしているという点においては何らの違いもないというわけである。「分かりました」というのは善意から出ている。「嫌だ」というのは嫌悪から出ている。つまり善意から発せられたのが「分かりました」であり、嫌悪から出たのが「嫌だ」ということになる。「分かりました」と応じた時には必ずそこには善意があり、「嫌だ」と答えた時そこには必ず嫌悪がある。善意と嫌悪とは全く違っている。そうであるから「分かりました」と「嫌だ」の違いも大きいことになる。そこで「『悪い』ことと『善い』こととの違いはどれくらいあるであろうか」と問いかけにおいて、これを意味の上から見て違うとするべきなのか、はたして発声をしているということにおいて同じと見るべきなのであろうか。清濁、軽重では違いがあるが、これらについてはどうであろうか(清い水と濁った水では水ということでは同じとなる。軽重も軽い石と重い石は同じく石である)。「嫌だ」と答えるところを全て「分かりました」と答えたとしたら、これは嫌悪から発していることを善意から発するものとしたことになり、これでは善意と嫌悪が正しく示されていないことになる。つまりあらゆることにおいても「分かりました」と「嫌だ」と同じことが言えるのである(比べる部分によって同じと見ることもできるし、違うと捉えることも可能となる)。


〈奥義伝開〉全く「反対」の立場のものも見方を変えれば同じと見ることができるようになる。学ぶことで利益、不利益となる違いが「量」的な視点から述べられているのに対して、応諾、善悪は「質」的な視点からの指摘となっている。応諾はそれを述べる人の考えは全く違っているが、応諾の言葉が口から発せられることにおいては同じである。善悪もそれが行為として実行されれば善悪に分かれるが、ただ体が動いた行為という一点に注目したならそれらは同じく身体を動かしているということになる。物事にはさまざまな見方がるのであり、どれが絶対的に正しいとは言えない。それを知ることが大切なのである。


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