宋常星『太上道徳経講義』(21ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(21ー1)

「道」とは「理」であるとされる。「理」のあるところには「気」がある。「理」と「気」があって造化が生じる。そして造化によって万物が生み出される。また造化が生み出すものには「動静の機」がある。「陰陽の妙」がある。陰陽の二気が交わる時、万物は一定の変化をする。「動」においても、どのようにでも動くわけではない。時機が熟して初めて動くことになる。「生」においても、どのようにでも生じるわけではない。時機が熟して生じることになる。ものが「生」まれる時、まさに天地の徳がひとつとなり、日月はその働きをひとつにし、時間も秩序だって動き、鬼神は吉凶を適切にもたらす。こうした造化の生じるその時があるので、万物も存している。太極の働きは完全であり、すべてがそれによっている。これは生死の重要な鍵であり、人が本来有している徳で本来、人が有しているものであり、造化の根幹でもある。こうしたことの奥深い意味としては、有無に関係してはいない。一定の形に留まるものではない、天地の大本であり、万物の大元で、聖人はすべてこの理を体現している、ということになる。そうであるから聖なる人とされるわけである。神仙もすべてこの理を体現している。そうであるから仙なる人とされるわけである。ここでは「衆甫」の語を見ることができるが、まさに「衆甫」とはこうした意味なのである。この文を読む優れた人は、こうした造物の機微をよく知ることができているであろうか。はたしてよく造物の重要な鍵であることが理解されているであろうか。天地の「衆甫」は、けっして個々人の「衆甫」と違っているものではない。特に思うのは道は天地を包んでいるということである。しかし、それがどこに働いているのか細かに見てみても、道を見出すことはできない。深遠なる徳(孔徳)の「徳」も、それは同様である。また「淵」であっても、その奥底を捉えることはできない。それをどこにも見出すことはできない。無欲、無為で、万物にこだわることはなく、道と完全に一致している。つまりこうしたことからすれば「大道の全神(注 全神は大道と一体となった意識のことでこれは「性」といわれることがある)」こそが、深遠なる徳(孔徳)ということになる。深遠なる徳(孔徳)の妙用とはすなわち大道のことでもある。こうしたことを体得することが、ここで説かれていることになる。


〈奥義伝開〉老子の言う「徳」とは「人が人として行うべき行為」のことである。ここでは「孔徳」とあって、その中でも特に深遠なる徳について述べられる。深遠なる徳とは宋常星も触れているように深い瞑想状態である「淵」に関係するもので、つまりは意識の奥底から発せられる認識による行為ということになる。これを簡単に言うと「新たなる認識」を得ることとなろう。意識の深いところからもたらされる「新たなる認識」とは、例えば石であればどれも同じ石であるが、「新たなる認識」が得られればある石は鉄鉱石であると分かり、ある石はダイヤモンドの原石であると認識できるようになる。こうして人はあらゆるものを新たに見出して来た。これが「衆甫(あらゆるものの始まり)」となるわけである。老子はあらゆるものは人が認識をしてはじめて存在すると考えた。鉄鉱石なら鉄鉱石は、鉄鉱石として人が認識し得て初めて存在し得る、つまり鉄鉱石としての機能を果たすことができるとするのであり、人の「新たな認識」を重ねて人としての行動ができるようにならなければならないわけである。


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