宋常星『太上道徳経講義』(20ー11)

 宋常星『太上道徳経講義』(20ー11)

多くの人は皆、存在理由を持っているが、自分一人はただただ理由もなく(鄙)生きているだけである。

「存在理由」とは行うべきことがあるために有することができている。「ただただ」とは頑迷であるということである。「理由もなく(鄙)」は価値がない、ということである。「多くの人は皆、存在理由を持っている」というのは、先の愚か(忽)なのは海のようで漂って留まるところも無い、というのと同じであり、これは世間一般の人のことを言っている。すべからくこうした人たちは自分のかってな考えをもって行動をしている。そうであるから海の水のように漂い流れているのであり、自分かってな考えを止めることもできない。そうした思いに流されるのを留めることも不可能なのである。真を捨ててでたらめを選んでしまう。それはあらゆるところでそうなってしまうのであり、正しいことを間違ったことと考えてしまい、間違ったことを正しいことと思ってしまう。君子をして小人と思い、小人をして君子と思う。こうして混乱を極めることになるのであるが、それも「存在理由を持っている」と思うからに他ならない。「生きているだけ」というのは「ただただ理由もない(鄙)」からである。これはつまりは無為の道にあるということに他ならない。どんな人でもそれぞれの性質はあるものであるが、そうしたことに関わりなく「無為の身」を修するべきである。「無為の身」であれば「無為の家」が整う。「無為の家」であれば「無為の国」が治まる。「無為の国」であれば「無為の天下」が平かとなる。こうして世の中が治まって行くのであり、すべてが「無為」でつながっていて、渾然として何らの作為も無い。そうであるから「多くの人は皆、存在理由を持っているが、自分一人はただただ理由もなく(鄙)生きているだけである」としているのである。


〈奥義伝開〉ここでは静坐の秘訣として「鄙(ひ)」があげられている。「鄙」は「おおざとへん」が村を意味し、右は耕作地と米庫を表すという。「鄙」は田舎という意味であるが、要するに田園風景を表しているのが「鄙」の本来の意味であった。これが転じて洗練されていない、卑しいなどの意味に用いられるようにもなって行く。老子の語る「鄙」は他のところでの「樸」と同じで、自然のままといったと意味で、先に見た「嬰児」と同じ境地を示している。自分が生きていることにおいて社会的な価値などは本来、必要の無いもので、ただ自然のままに生きている、それ以上でも以下でも無い、これが「嬰児」を生きるということである。


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