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宋常星『太上道徳経講義』(18ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(18ー1) 大道というものの「用」を愚考してみると、それは無為にして「用」いれば適切に事が為されるが、これを有為にして「用」いるとそうはならない、ということになろうか。無為であれば適切に用いることができるのは、それが自然のままであるからである。まさにあるべきままであるからである。ただそれだけである。しかし、これこそが至誠の実理なのであり、そこに「私」というものが入り込む余地は無い。天理そのままであれば、上下は安定しており、何の問題の起こることもない。朝野にわたり人々は柔らかな心となって生活を楽しみ、なんらの人為を感じることもない。もし、これが有為にして世を治めようとするのであれば、必ず時代の影響を受けることになる。そうであるから変わらない人の心を基準とすることがなければ、どうして自然に安んずることができるであろうか。上も下も何事も無く居られるであろうか。有為でこの世を治めることができないのは、こうした理由による。 この章では「有為」ということについて述べられているが「至誠」「無妄」は天の徳である。おおいなる公の立場にあって無私であるのが、天の道である。無為をして天の動きのままであるのは自然の理である。どのような物でも等しい価値を認めるのは、聖人のおおいなる統治(至治)の徳である。いまだこうした聖人の徳を基盤としないで、適切に世を治めることのできたことはなかった。もし聖人の徳を用いないのであれば、それを補うのにかなりの作為を用いなければならなくなる。そうしたことをいろいろとしたとしても結局は無為で治める以上のことはできないのである。 〈奥義伝開〉ここで老子は後の共産革命の出現と失敗をも予言している。つまり太古の原始共産制である「大道=大同」の世が終わる(本当にあったかは別としt)と、そうした平等社会をまた実現しようとする共産主義という「知恵」が生み出される。しかし、それは余りに作為的であり、現実には真の平等社会とは程遠いものでしかなかった。これを老子は「知恵」の後には大いなる作為である「大偽」が生まれ、それはおおいなる偽りである「大偽」と教えているのである(「偽」には「つくりごと」という意味と「いつわり」の意味がある)。「大道」の世はあくあまで人の意識が「大同」にまで至らなければ達成されない。あらゆる人が「平等」に暮らすことで満足する意識

宋常星『太上道徳経講義』(17ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(17ー7) 「人々の協力があって事業は完成された。人々は皆『わたしは自然のままにしただけ』と言っている」と。 「社会的な」ことは無為の徳によってのみなされるべきであり、「成功」は結局のところ「不言」の教えによらなければならない。また、これは「無為の徳」においてなされることでもある。もし「無為の徳」を充分に養うことなく、日々その実践を積み上げることがなければ「成功」を得ることはできないであろう。また、これは「不言の教」であり、決まった教義があるわけではない。これを実行するのには誠がなければならない。愼みを行うことがなければ「成功」を望むべくもないのである。そうでなければ「無為」が実践されていないからである。「成功」していなければ「不言の教」が行われていないわけである。「不言の教」が実践されなければ「無為の徳」を守ることもできていないわけである。つまり「不言の教」とは自然であるということであり、つまりは「無為の実践」なのである。「無為の実践」は「不言(きまった教えがない)」であり、かつ「自然」でもある。そうであるから、おおいなる変化を促すことができることになる。おおいなる「言」は言われることのない「言」なのであり(不言)、そうした「言」は信ずるに足りる。そうなれば民も自ずから「不言」の「言」を信ずることであろう。こうした「不言」の「言」を信ずることは、人々が形あるものを信ずることと、何ら違いがあるものではない。人々が信ずることができるものであれば、自分も信じることができるであろう。こうしたことは期せずして自然にそうなるものである。期せずして信じ、自ずから信ずるようになるのである。人であって自然でないものはなく、人であって信用ならないものは本来はない。そうであるから自然に感じたことが言葉として発せられるのである。社会的に成功し事業を達成できたことを人々が、これは自然になされたものと考えれば、その成功を人々皆が喜ぶことになる。つまりこれは自覚しないで発せられた「言」と同じで、まったく自然なことであるからである。太古の様子を詳しく考えると、人々は耕して食べていた。木を削って器を作って飲んでいた。こうしたことが特に教えられなくても自ずから行われていたのである。こうした中にあって政治の恵みを民は実感することもなかった。「不言の教」の行われていることを

道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(4)

  道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(4) このように合気道は実戦を抽象化して鍛錬をしようとするシステムであるので、それはあくまで「引力」の鍛錬が主眼でなければならないのであり、それを行うには相手を痛めつけよとする気持ちではなく、ふわりと導くような心持ちでなければ間合いが作れない。これは太極拳の「舎己従人」の教えとも共通している。太極拳の場合は「自分」を中心にして「己を捨てる」と教えるのに対して、合気道は「相手」を中心にして「相手と合わせる」としているのは文化的傾向としておもしろい。「個人」を中心とする中国の文化と、「世間」がベースとなる日本の文化の違いとも言えようか。あくまで合気道の本質は「柔(やわら)」の文化の中にあることを忘れてはならない。こうした微細な部分稽古で失われるとシステム全体の崩壊が生ずる。そうなると心身にわたる深い考察の上に構築された武術文化は継承されることなく、単なる格闘術かオカルト術に堕さざるを得ない。

道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(3)

  道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(3) 「合気道は愛の武道である」というのは、また盛平が述べているように「合気道の稽古は引力の稽古である」というのと同じで、相手と気を合わせることで体ではなく、意識を誘導することを練ることが合気道の稽古の目的なのである。つまり技がかかり始める前までが合気道の鍛錬なのであって、掛かってからはその余波を行っているに過ぎないわけである。技が掛かってしまえば、そこで止めることはできないので、結果として投げたり、固めたりという形にはなるが、それは主たる目的ではないわけである。これは大東流も同様で例えば複数によって一人を抑える場合、古い柔術の伝書などでは一人をうつ伏せにして手足や胴体を抑えることを教えているが、大東流では仰向けに抑えている。これは返し技を行いやすくしているためで、つまりはこの形が実戦を想定したものではない、あくまで稽古の便宜上生まれた形であることを示していることが分かる。こうした複数の人に抑えられて返す技は、多角的に注意力を展開することを磨くのにはひじょうに有効で、それを太極拳では「敷」字訣として教えている。

道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(2)

  道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(2) 最近の合気道の演武を見ていると、やたらに激しく技を掛ける人が多いのは気になるところである。これは、激しく投げたりしなければ実戦的ではない、威力がない、という思いからなのであろう。しかし、合気道で示されているのは攻防の「最終形態」そのままではないことに留意しなければならない。武術には、最終形態を「具体的に示すシステム」と「抽象的に示すシステム」があり、合気道は後者なのである。そうであるから盛平は「合気道の形は気形である」としていたわけである。しかし武術には「実戦と同じ動きでなければ、間合を含めての実戦の稽古はできない」として、動きを実戦の範囲に限定するのを良しとする門派もある。詠春拳などはその代表であるが、世に「小架」などと称される動きの小さいものは大体が実戦を想定している。一方、体の鍛錬や「実戦では緊張して体が動かなくなるので練習ではできるだけ体の稼働範囲を広げたほうが良い」とする考え方もあって、これは動作を高く大きく行う。そうなると実戦では「1、2、3」の動きが「1ー、2ー、3ー」となってしまい、間延びしたような形になる。しかし、そうすることで個々の動きの細部まで練習が可能となり、無駄な動きを削ることができるようになるので、結果として実戦での動きも速くなると考える。

道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(1)

  道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(1) 植芝盛平は「合気道は愛の武道である」と教えていた。これを単なる「空言」「理想」「理念」であり、実際の合気道の修行とは関係ない、と思う向きもあるであろうが、そうではない。盛平は直感的に思いつくことをそのまま述べるタイプの人物であり、そうした人の言意すぐに理解が得られるというものではないが、その一方で、よく前後を見渡すと意外なほど正直な真意が見えてくる。一般的には直感的な発想に論理を付して他人に説明するのであるが、そうなると「直感的な教え」に論理的な整合性がとられることになって、むしろ余計な部分が混入してしまうことも少なくない。たとえば大本教でも出口なおの筆先は「われよし」とあるのを、王仁三郎の「大本神諭」では「体主霊従」と書いて「われよし」と読ませている。「われよし」は現在「利己主義」と解することが多いようであるが、「個人主義」や「自由競争」「市場主義」などとして理解することもできるであろう。このように筆先の「われよし」を「霊主体従」として限定してしまうと、大本教の中でしか通用しない教えとなってしまう。しかし、それを原文のままに「われよし」として理解しようとするならば社会批判、文明批判としてより広い意味を汲み取ることが可能となる。つまりインスピレーションによって得られた言葉とはこのようにいろいろな解釈が可能であり、そうした中でその真意が見出されて来るものなのである。

宋常星『太上道徳経講義』(17ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(17ー6) つまり、ここに重要な言葉がある。 天下、国家に太古の美風を求めるとすれば、太古の素朴さが求められることになろう。ただこうした美風を人々に教え導こうとしても、民衆を太古の淳朴さに返すことなどできはしない。こうしたことでは天下を統治することはできはしないのである。つまり、ここで述べられているようなこと(論理的な思考)が重要となるわけである。「不言」の教えを行うと、(それは無為による統治であるから)天下の民も無為にして自ずから教化されることになる。こうなると期せずして「上」と「下」に「信」が生まれ、人々は君主は「親」しくされることも、「誉」められることも自ずからなくなってしまう。「畏」れや「侮」りも生まれることがない。つまり(それが現実に行われるかどうかは問題ではなく)こうした「論理が重要」なのである。 〈奥義伝開〉ひとつの構築されたシステムは必ず崩壊に向かうというエントロピーの法則が注目されたこともあったが、それは我々の社会でも同様である。仏教の末法も、仏教というシステムが長い間には崩壊してしまうことをいうものに他ならない。人も同じで人体というシステムは必ず崩壊する。つまり死なない人はいないわけである。あらゆるシステムのは終わりが来る。この真理を忘れないことが重要で、そうした崩壊を止めようとするところに間違いが生まれると老子は教える。どのような改革も革命もその結果として必ず「上」と「下」が生まれる。最後に老子は言い伝えられた格言を、次に示してこの章を締めくくる。

宋常星『太上道徳経講義』(17ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(17ー5) つまり「信」が充分でなくなると、その分の「不信」が生まれるわけである。 民への「親」「誉」「畏」「侮」について深く考えてみるに、そのどれが実行されるかの責任は民にあるわけではないことが分かる。つまり「上」にある者に「信」が充分に得られなければ、民は「上」を信用することができなくなってしまう。そうなると民へ「親」「誉」が行われたり、「畏」や「侮」が現れたりすることになる。そしてこうしたところでは「信」は存することができなくなってしまう。民から「上」への信用もなくなるし、君主から「下」への信用もなくなってしまうわけである。つまり「上」と「下」がともに離反することになるのであり、こうなれば天下は乱れないということはない。五覇(桓公、文公、荘王、闔閭 こうりょ 、勾践 こうせん )の時代を見ているのに、「仁」や「義」の名を騙って、相手を騙して意のままにしようとしている。こうなると「上」でも「下」でも信用はなくなってしまう。ここに「『信』が欠けているところに、その分の『不信』が生まれることになる」とあるのは、こうしたことなのである。 〈奥義伝開〉ここで「不信」とあるのは「社会矛盾」のことである。収奪する側とされる側における格差などがおおきくなり過ぎると社会矛盾は顕然化する。そうなると「上」の「信」は失われてしまう。原文では「信足らざれば」とあるのは驚くべき優れた表現で民衆も次第に「何かがおかしい」と気づき始めるわけである。そしてついには「上」を信ずることができなくなってしまう。

宋常星『太上道徳経講義』(17ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(17ー4) さらにその次に(太上は)畏れさせ、またその次には侮られるようになる(のを見たのである)。 五帝の時代には更に文明が開けて来た。かつて太古にあっては「君主」も「臣下」も区別がなく共に聖なる知恵を持っていた。刑罰は行われる必要がなく、天下の人々は君主の存在を知ってはいるが、それを畏れるといったことはなかった。そして三王(禹、湯、文あるいは武とすることも)の時代になると、世に「道」は次第に忘れられて、人々の心はそれぞれ自分のことだけを考えるようになって行った。そうなると凶暴な行いをする者も現れ、刑罰をしてそれを制しなければならなくなった。刑罰が設けられれば、それを畏れない人は居ないであろう。しかし、そうなれば、それを逃れようとする人も出て来る。こうして刑罰を守ろうとしない人が現れるようになると、司法は円滑に働かなくなり、脱法行為がますます盛んになって行く。人の心や世の道は五帝の頃と比べるべくもない程、廃れてしまうこととなる。そうであるから、そうした世の中を「次の時代」として「君主の存在を畏れ」たり、それが「侮られ」たりするようになるのとしているのである。太古の人々のことを詳しく考えて見るに、素朴で自他の隔てもなく、何らの知識の蓄えもなく搾取(上 君主)を意識することもなかった。つまり「君主」から親しくしされたり、誉められたりすることもなかったわけである。その次の時代には親しくしたり、誉めたりしていたが、それはそれで道徳的な至誠の生活が送られていた。さらに時代が下ると太古の淳朴さは失われて。ずる賢さが生まれ、不忠、不孝も行われるようになった。仁が害せられて義が損なわれるようになった。結果、仁や義は意図して行わなければならなくなり、刑罰も設けざるを得なくなったのである。 〈奥義伝開〉搾取する側(上)とされる側(下)の矛盾がおおきくなり見せかけだけでは解消できなくなると「上」は「下」を力で抑え込もうとするようになる。ここで老子は「親」と「誉」については「次に」として二つを同時にあげているが、「畏」と「侮」は「次」に「畏」そしてまた「次」に「侮」とする。これは収奪がうまく行かない時に権力者は、先ずは力によって人々を抑え込むからである。「畏」をして「下」の人々を抑え込むのは一般的には「法律」による。そして法律は司法により権力者に都合の良いよ

道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(8)

  道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(8) これは中国武術に限ることではないが、中国文化には多分に「形式主義」的なところがある。何でも五行や陰陽、十干、十二支などに入れ込んでしまうことが多い。それは「真理のの普遍性」によるものとされ、五行をしてこの世のいろいろな事が説明できるのであれば、拳においても「五行」というフレームが有効であろうとするわけである。そこでなんとか形意拳でも五つの形をそろえようとしたのであるが、なかなか「横拳」が定まらなかったらしく、各派によって横拳にはかなりの違いを見ることができる。それはともかくこうした形式的なフレームにこだわる中国人なのであるが、実のところはそれには「意味がない」ということも知ってもいる。こうした文化的な背景をよく理解しておかないと大変な「迷路」に入り込むことになる。「真伝」とはどこが本道で、どこが枝道なのかを正しく説いた教えのことであり、それをよく理解している人が「真伝」を得ていると他から認められることになる。

道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(7)

  道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(7) 先にも述べたように鶏形四把は四つの勁を練るもので、それは「横、挑、斬、捉」であることは触れた。これらはつまるところ相手を補足する「鷹捉」の練習法なのである。「鷹捉」は形意拳の大原則である「起落翻讃」によることは、もちろんであるが「挑」は「起」で、「斬」は「落」そして「翻、讃」が「横」、鷹捉が「捉」となる。「翻、讃」が「横」というのは「拳をねじり(翻)ながら力を集中させて出す(讃)」という動作の軌跡が「捉」の場合には横向きであるからに他ならない。それは形意拳においては、横拳や讃拳、そして劈拳のはじめの拳を出す動作などに見ることができる。もちろん形意拳の「翻、讃」には「横」の動きだけにあるのではなく、劈拳の掌で打つところや崩拳、砲拳などの「縦」の動きにおいても見ることが可能である。このように鶏形四把においても、そこでは「四把」という理論を練ることを目的にしているものであり、決して四つの動作を練習しているのではないことに留意しなければならない。

道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(6)

  道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(6) よく「形意拳は中間のない武術」といわれる。それは形意拳を練習している人の多くが「ひじょうにうまい」か「ひじょうにへた」であるかに截然として分かれるためである。実際のところ殆どの武術の練習者が到達するのが「そこそこ使える」という「中間」レベルであることを考えれば、形意拳の習得はなかなか難しい選択としなければならないのかもしれない。もし、よく「形意拳のシステムとしての構成」を理解して拳を練ったならば、多くの形を覚える必要もないので、ひじょうに効率よく功を深めることができる。こうした中で最も重要なことは「真伝」を得ることであることは言うまでもあるまい。これは形意拳に限らず中国武術では特に「真伝」ということが重視される。それは極論を述べるならば「中国武術において形式には意味がない」からに他ならない。連環拳であれば連環拳そのものの形に意味はないのである。そこで重要なのは「連環性の理論」を実際に身体のレベルで練って習得することである。これは鶏形四把でも明らかで、ここでの四把とは「横、挑、斬、捉」の四っの把法(用勁法)であるとされている。形意拳では四把に鶏形を冠していう場合が多いが、それは始めあたりの動作が鶏形に似ているからであることと、四把を「四動作」としたならば全体として動きが多すぎるので、始めの方を四把に鶏形を加えたものと解釈した結果あである。そうであるから鶏形四把という名称は適切とはいえない。

道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(5)

  道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(5) 形意拳の歩法は一気に間合いを詰めることを目的としているのであるが、これを足から先に動かすと、どうしても上半身が取り残されることになる。そうであるから梢節である手から起動しなければならないわけである。こうした形意拳独特の連環性を特に練るためにあるのが連環拳で、もちろん五行拳においても、こうした梢節から動く連環性の原則の上に動作があるのであるが、連環拳ではただ左右の同じ動きを繰り返すだけではなく、いろいろな動きにつないで行くところに練習の眼目がある。つまり、いろいろな動きに変化をさせることで一定の形式から自由になることを目指しているわけである。結局のところ形意拳の連環性とは、形からの離脱にある。形意拳では「中段の構え」を執拗に用いようとする。それは「中断の構え」が功を練る上で有効であるのと同時に変化に対応することのできるものであることが含まれている。形意拳では始めの功を練ることと、その応用ともいうべき変化を同じ形で練ろうとする。そうなると、それを正しく理解して練習をしていれば良いが、そうでなければひじょうに中途半端なものとなってしまう危険がある。

宋常星『太上道徳経講義』(17ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(17ー3) 次に(太上は)親しんだり、誉めたりすることを見た。 「次」とは伏羲や神農の次の五帝(黄帝、顓頊、帝嚳、唐堯、虞舜)の時代のことである。この頃、礼儀や儀式の音楽が定められ、尊卑の存することがいわれるようになった。礼服が設けられて貴賤が区別され、宮殿も造られた。こうして太古の洞窟生活に人々は別れを告げたのである。橋が掛けられて、通れない川も渡ることができるようになり、舟や車が作られて水や陸を行くことも可能になった。文字が出来て、縄の結び目による記録をしなくてもよくなった。こうして人々の心は次第に開かれて行ったのであり、人々の生活は次第に複雑になって行った。結果として「仁」や「義」を説いて人々を教化しなければならなくなった。つまり君主は「仁」を実践するのであるから人々に親しむことになるし、「義」を重視するので「義」を実践する人々を誉めるようになった。これは太古の暮らしとはおおきく違っている。そうであるから親しんだり、誉めたりするのは、(意図的な行為であるために)「次」であるとしているわけである。 〈奥義伝開〉ここでの「親」と「誉」は次の「畏」と「侮」からすれば「親」は「上」から「下」へ、「誉」は「下」から「上」へのものであることが分かる。つまり搾取が円滑に行われている限りにおいて「上」は「下」に優しく親しみをもって接する。「王」は笑顔で「下」の民衆に接したりもするわけである。それを「下」は喜び「誉」め称える。老子からすれば権力者を歓呼の声をもって迎える民衆はまさに愚民そのものということになろう。

宋常星『太上道徳経講義』(17ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(17ー2) 太上は「下」があることを認識した。 「太上」とは古代の聖なる君主のことである。「下」とは人々のことで、太古の優れた時代には天下の人々は「上」に君主が居ることを知っているだけで何らの煩いを感じることもなかった。つまり「上」が自分たちを統治していることを意識することがなかったのである。これは君主が人々を軽視しているからというのではない。それは「道」をして人々を導いていたからである。そうであるから「道」のままである民衆にあっては「道」を行っている君主が何か特別なことをしているとは思えないのであった。天下の「上」と「下」は一体であり、万民は「一心」となっていた。そうであるからここでは「太上」は「下」があることを認識している、とあるだけなのである。つまり伏羲や神農が現れる前、鳥獣は隔てなく暮らしており、人の守るべき道が定められていることもなかった。人心は淳朴であるが、自分では淳朴であるとは思ってもいなかった。人々の暮らしも大まかで、人々はそれを意識することもなかった。ただ日々の生活を送っているだけで、何も気にすることのない生活をしていた。こうしたことを前提に、ここでの老子の言葉の意味を理解して欲しい。 〈奥義伝開〉老子は慧眼をして普通の人の見ることのできない「社会矛盾」の存していることを告げる。多くの人は「王様はりっぱな宮殿に住むもの。庶民は小さな家に住むのが当然のこと」と思い込まされているが、それは「上」の収奪者たちによってそのように思い込まされているに過ぎないことを老子は先ずは指摘をする。

宋常星『太上道徳経講義』(17ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(17ー1) 天地と万物は等しく「一道」であるとされている。聖人と人々も等しく「一心」であるとされている。聖人は優れた世を正す能力があるわけではなく、特別なことをすることもない。また民衆の意向に逆らうこともないし、物に執着することもない。聖人が重視するのは特に知ろうとしないことにある。自分が何かを持つことを良しとしないことである。それは天の日や星のようにあるがままであって、太虚の存在さえをも忘れている。下にあっては人々に親しんだり、特別に人々を好ましく思ったりすることもないし、特に侮ることもない。普段の暮らしは他の人たちと変わりはなく、何ら気にしたりこだわりを持つこともない。それは水の中で遊ぶ魚のようで、魚が水の存在を忘れているように世の中のことに特に注意を払うこともないのである。すべては無為であることを「上」として、「下」において他に対する。住むところも普通で、特別なものは何もない。それは古い時代の淳朴な生活そのもののようでもある。そして、すべからく公明正大な生活を楽しんでいる。天下を治める道も、これ以上でもないし、これ以下でもない。 この章では古の聖なる統治者のことが深く考察されている。よく上下の情に通じて、自然に人々が治まるようにする。それは「一」に天下の「義」を信じることにある。 〈奥義伝開〉ここで老子はこの社会には「矛盾」があることを指摘して、それがどのように現れるのかにも言及する。そしてこうした「矛盾」は民衆がその存在に気づくことなく時には歓喜をもって迎え入れるものでもあることが述べられる。ここで宋常星は「次」とあるのを時代を追って世の中が悪くなって行く様子として解説をしているが、これは太上の認識の深まりを追うものと解した方が妥当であろう。

道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(4)

  道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(4) 太極拳の拳訣では力は「脚」を「根」として「腰」を「主宰」とし、そして「手指」に力が「形」として現れることを前回では紹介しておいた。そして形意拳は「梢節」から動くのが原則なので「手指」から「脚」「腰」そして「手指」と至って攻防の威力となることも述べておいた。ではなぜ形意拳ではわざわざ「梢節」の秘訣をいうのであろうか。それは最後の「手指」がそのまま最初の「手指」となるからである。そうすることで途切れることなく攻撃の力が発揮されることとなるのである。先に伸ばされた「手指」は、早い段階で相手と接触をしてその動きを捉え(鷹捉)、そして歩法(脚)を導いて、力が発せさられる。こうした方法によれば攻撃を原理的には永遠に続けることが可能となる。形意拳の連環拳はこうした「手指」と「脚」との連関性を練ることを主眼としている。

道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(3)

  道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(3) 興味深いことに中国では文化的な伝統として「歩法」を重視する傾向があるようで道教でも古くから禹歩(うほ)と称されるものがあり、独特の歩法を踏むことで魔的な霊力を大地に鎮めることができるとされている。これは日本にも伝わって各地の祭礼でそれを見ることができる。また武術でも歩法は秘伝とされることが多く、木の棒を立てた上で歩法を鍛錬したり、あるいはその周囲を回ったりすることもある。太極拳がその「根」が「脚」にあるとしているのも、力の根源が歩法にあることをいっている。つまり歩法は単に歩法だけで完結したのでは意味がなく、身法、手法と一体となったところで武術としての有効性を発揮し得るわけで、その意味においても太極拳で「脚」が「根」であるとしているのは妥当な教えということができる。ちなみに「根」から発した力は「腰」でコントロールされる。太極拳ではこれを腰が「主宰」であると表現する。そして「手指」は「形」をなすわけで、これにおいて攻防の威力として現れてくることになる。この原理は形意拳でも変わらない。ただ形意拳には梢節(手指)から動くという大前提があるので、一見すれば太極拳と反対に「手指」が第一に来るように思われるかもしれないが、形意拳では先ず手指(梢節)が勢を導いて、「脚」から「腰」そして「手指」へと至ることになる。つまり力の発せられる原理は太極拳でも形意拳でも基本的なところに違いはないことが分かる。

道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(2)

  道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(2) 形意拳の歩法でよく知られているのは「跟歩」の他には「餞歩」や「テン(執の下に土)歩」がある。これらは等しく形意拳における歩法の秘訣を示しており「前足の踏み込みが歩法の基本」であることを教えている。一般的に前足を送り出すのは、後足の踏み込みによるが、形意拳では前足の踏み込みを使う。これは八卦掌でも同様である。つまり定歩においても足を出すのは前足の踏み込みであり、活歩においても同様で、大きく踏み出せば活歩となり継ぎ脚(跟歩)が自然に生じるわけである。こうして見れば「跟歩」も「餞歩」「テン歩」も同じことを違った言い方で表現しているに過ぎないことが理解されよう。おおよそ武術における秘訣(拳訣)はそうしたもので、太極拳の「柔」でも「鬆」でも「静」でも、帰するところはひとつ、となる。この前足の踏み込みを使うために形意拳では真っ直ぐに前進する歩法しか取り得なかったのである。一方、八卦掌では前足の踏み込みにより得られる急速に間合いを詰める有利さと、踏み込みの勢いを生じさせることにより打撃力の大きさが得られる、その後者を捨てて間合いを詰めることだけを採った。そして擺歩を使うことでより間合いを巧妙にコントロールしようとしたわけである。その結果、どのようにして打撃力を得て良いのか、が分からなくなって、八卦掌を投技と理解する傾向も生じたのである。

道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(1)

  道徳武芸研究 形意拳の歩法と連環性(1) 形意拳の歩法には一般的な歩法の分類でいうならば「定歩、活歩、十字歩」がある。形意拳の歩法の特徴が継ぎ脚(跟歩)にあることはいうまでもなかろう。これは大きくは活歩に属するものであるが、形意拳独特の工夫がそこには含まれていて、形意拳では定歩と活歩とを同じ原理で行う。一般的な歩法の練習においては変化のない定歩で、基本的な姿勢を作ってから、実際の攻防に対するために間合いをコントロールする方途として活歩が教えられることになる。基本的に形意拳の歩法は活歩も含めて前進するだけであるので、これを有利に用いるためには跟歩を用いて一気に間合いを詰めて、相手に対応するすきを与えないようにする。この間合いは竹刀剣道と似ている。おもしろいことに半世紀くらい前の空手の試合ではこうした剣道に似た前後に間合いをとる歩法が多用されていた。しかし現在はボクシングのような左右前後に細かく移動する歩法が多い。それは「一撃必殺」で相手を倒すことよりも、当ててポイントを取るにはいろいろな角度から打つことの可能な歩法を使うこと方が有効であるためである。こうしたボクシング・スタイルに対して跟歩のような歩法は一撃の威力は大きいものの攻撃が失敗した時に反撃を受ける危険が非常に大きくなってしまう。

宋常星『太上道徳経講義』(16ー14)

  宋常星『太上道徳経講義』(16ー14) この章では、天には天の根があり、地には地の根があり、物には物の根があり、それは「致虚」の極みであるとしている。つまり天の根は「静」であり、それをよく守ることで、つまり「虚」である地の根と、ここに「虚」と「静」は共に生まれていることになる。谷神は死なない(第六章「老子」)とされるが、これはつまり人の根なのである。「虚」であればどのようなことでも認識する(神交)ことができる。「静」であればどのような気でもそれを感じることができる。これは物の根である。そうであるから根に帰することがなければ、「命」に「復」することもない。「命」に「復」することがなければ、「虚」や「静」の奥義を得ることもできないのである。そうであれば「常久」ということもありえない。「虚」や「静」の奥義を得ることがなければ、「閉じていない世界観(公明)」に達することもできない。また「虚」や「静」の奥義を得ることがなければ、「天と一体となり道を体得する(順天体道)」ことも不可能である。「虚」や「静」の奥義を得ることもないので危ういことこの上ない。そうであるから「虚」や「静」は、つまりは天地の本なのである。万物の中核となるのは「この身を修めて、国を平穏にし、天下に乱れがないようにする(修身、治国、平天下)」であるが、これらはすべてまったく「虚静の道」を外れるものではないのである。 〈奥義伝開〉この章は静坐とそれによって得られるべき境地についてかなり論襟的に説明されている。実際としては「静」の感覚を得るようにする。それが得られれば過度な執着から脱することができる。これが「虚」への覚醒である。どうして執着から離れることができるか、といえばそれは太極・陰陽の考え方を体得するからである。この世界観においては、あらゆるものが相対化されて接待的な価値を失ってしまう。これを普遍の法則である「道」と信じて生きて行けば、「死」の恐怖をはじめとして、あらゆる不安から逃れることも可能であるとする。こうした説明が正しいかどうかは分からないが、静坐の方法として「静」を得て「虚」の認識に至るということは、心身を活性化するひとつのプロセスとして古くから実践されているものではある。

宋常星『太上道徳経講義』(16ー13)

  宋常星『太上道徳経講義』(16ー13) (道と一体であることが分かれば)この身が滅んでも心配することはない。 太古から存在し続ける、「常」に存することを、「真常の道」という。こうした「本来の道(本道)」を「体」とする。「道と一つになる(合道)」のは「用」である。つまり進退、存亡を知らず、吉凶、消長が明らかではなく、人々の関係性を乱し、何を行って良いか分からなくなっている状況、そうした中で必ず至るところは、自らの「身」と「道」との一体である。つまり自分と「道」とが一体となるのであり、「道」と自分とが一体となるのである。「道」には危ういものは全く無い。そうであるから「道」と一体となっている自分には危ういところはまったく無い。「この身が滅んでも心配することはない」とあるのは、そういう危うさがないということである。 〈奥義伝開〉この世は太極・陰陽で成り立っている。そうであるから「生」と「死」は離れることのできない関係にある。つまり「生」きているということは、「死」へと向かっているということでもあるわけである。そうなると「死」は受け入れるしかないものとなる。生死をひとつのものと考えることができれば、「死」への恐れもなくなると老子は教えているわけである。もしひどく「死」に対して苦痛を覚えるならば、それがどうしてか考えてみることも解決の一歩となるであろう。老子はあらゆることは過度のとらわれから脱却すれば苦痛は和らぐと考える。「死」もそのひとつである。

宋常星『太上道徳経講義』(16ー12)

  宋常星『太上道徳経講義』(16ー12) 「道」は永遠なるものである(久)。 太古から長く存している「永遠なる存在(常存)」ということを子細に考えてみるならば、悠久無窮の道ということになる。つまり「真常の道」ということである。これを天地に得たならば、天地はつまり「常久」となる。これを人や物に得たならば、人や物は「常久」となる。「常」なる存在が人であることが分かったならば結局、その人は永遠なる存在となる(久)。つまり大道と同じとなるのである。物の生成(造物)と道とは同じである。つまり「『道』は永遠なえうものである(久)」とはこのような意味なのである。 〈奥義伝開〉この世には一定の法則があるのか否か。老子はそれが有ると考えて、それを「道」として「道」を深く知ることでこの世の仕組みが分かり、悩んだり、生きることに苦しんだりすることはなくなる、と考えていた。ただ本当に「道」があるのかどうかは分からない。中国ではインドのように、そうした課題を探究しようとする欲求が大きくなることはなかった。現実問題として探究しても仕方がないと思ったからであろう。釈迦もそうした探究をあまりし過ぎてはならない、と教えている。ただ永遠普遍の法則かどうかは分からないが「静」の境地を会得して、過度な執着を捨てる(虚)という生き方もひとつあるということを知っておくのも良いのではなかろうか。

道徳武芸研究 八卦掌における吉祥寓意(4)

  道徳武芸研究 八卦掌における吉祥寓意(4) 結局において孫禄堂が「球」として形容しようとしたものは何であるのか、といえば、それは「肘」の使い方にある。八卦掌では相手の「圧」を受けると肘を上げたり、下げたりといろいろの角度に変化をさせて、相手の力を流してしまう。一方、太極拳では肘を後ろに引くことで相手の力を流す。また形意拳では肘そのものは動かさないで身法によって力をかわす。このような力のさばき方の違いを孫禄堂は「球」として表しているわけなのである。八仙過海はこうした「球」の奥義が形意拳と八卦掌の融合にあることを示している。ちなみに麒麟吐書はその重要性が吉祥を告げる麒麟でも、玉書にあるのでもなく、新たに生まれるものにあること、つまりこれまで習得してきた形を超えたものこそが本当の奥義であることを示している。このように八卦掌における「吉祥寓意」はその奥義である「到達点」を暗示するものなのである。

道徳武芸研究 八卦掌における吉祥寓意(3)

  道徳武芸研究 八卦掌における吉祥寓意(3) 相手の攻撃をそのままに受けてしまったのでは武術としての「術」の意味がない。そこでいろいろな工夫をして大きな力や激しい勢いの攻撃でも対処できる「術」をそれぞれの武術では考案してきた。孫禄堂が「球」として捉えていた動きを端的に示すのは八卦掌では風輪掌、形意拳ではダ形、太極拳では雲手であろう。これらは共に両手を向かい合わせる形となる。そこで形意拳が「鉄球」とされるのはダ形では相手に触れてもその形を変えることなく、それでいて相手の勢いを外してしまうためである。この場合に接触点での「圧」はそこそこ強くなり、ある程度「沈身」ができていないとこちらの身体が浮いてしまう。また八卦掌でも接触点の「圧」は一旦はある程度の大きさになるが、それをすぐに上下左右に動いてずらしてしまう。その力の通り道がいくつもあって、どの方向にずらされるか分からないので「鉄糸」と形容されている(糸が相手の力をずらす道としてイメージされている)。一方、太極拳は接触点の「圧」がほとんど無い。そうした状態を押せばすぐにへこんでしまう「皮」の球としているわけである。龍形八卦掌の八仙過海は孫家八卦掌の風輪掌をより複雑に展開したものということができる。風輪掌では、ひとつの大きな球を抱えているような比較的単純な動きであるのに対して、八仙過海はダ形と同じくらいの両手の感覚でそれを上下左右に動かして、あたかも球を撫でているような複雑な動きをする。

道徳武芸研究 八卦掌における吉祥寓意(2)

  道徳武芸研究 八卦掌における吉祥寓意(2) 龍形八卦掌にしても、八卦拳にしても八母掌の最後にこうした吉祥を象徴するものが名称とされているのは興味深いことであろう。こうしたところからしても龍形八卦掌を編んだ人物が八卦拳のかなりの奥義を知っていたことが分かる。それはともかく八掌を練り終えて至るべき「吉祥の地」とは、心身が天地と一体となったあるべき状態に変化したことを象徴しているに他ならない。これは太極拳の最後が「合太極」で、太極と一致した状態を象徴するのと同じである。「八仙」は八卦であり、八母掌の八本の技のこと(龍形八卦掌では七本目に二つの技が入っているので八仙過海までに八本の技が出ている)で、「過海」は両手を合わせて上下に変換する動きが船を漕いでいるようであることから名付けられている。つまり龍形八卦掌において八仙過海は八卦掌の「総合技」「奥義技」として他の技とは一線を画するものとなっているのである。こうした「過海」の動きを、孫禄堂は「鉄糸球」と形容している。よく孫禄堂は太極拳を「皮球」、形意拳を「鉄球」として、八卦掌を「鉄糸球」に例えていたとされるが、これは具体的には「接触点」の「圧」の処理の仕方をいうものである。ここに孫禄堂はそれぞれの拳の特徴を見たわけである。相手とのファースト・コンタクトをどのように処理するのか、これは確かに武術において工夫のなされるところではある。

道徳武芸研究 八卦掌における吉祥寓意(1)

  道徳武芸研究 八卦掌における吉祥寓意(1) 龍形八卦掌の八母掌の最後は「八仙過海」である。これは日本でいうなら七福神の宝船と同じで、民間に人気のある八人の仙人が船に乗って蓬莱山(島)へ行こうとしている様子を示している、ことになっている。日本では沖縄など南方地域には古来より海上他界の信仰があって、そこには祖先の霊が居て、時を決めて人の住むところにやって来て祝福を授けると信じられていた。こうしたところからすれば八仙過海の信仰は南方地域から広がったと考えることも可能であろう。もっとも南方の海洋信仰としては媽祖がよく知られている。媽祖が観音信仰との関連で語られるのも、海上にあるとする補陀洛山(海上他界)に観音が降臨するという信仰が関係しているようである。八仙過海にしても、宝船にしても要するに「彼方にある好ましいところに行く」というモチーフがあるわけで、「八仙過海」という語は今日の中国語では「思いもよらないような能力を発揮する」というような意味で使われることがあるようである。龍形八卦掌では、こうした吉祥の寓意を八母掌の最後に持たせているのであるが、興味深いことに八卦拳もその八母掌の最後には「麒麟吐書」があり、これも吉祥を招く意を有している。吉祥を告げるとされる麒麟が「玉書」を咥えて現れ、孔子の出生を予言したとするのが「麒麟吐書」であり、これも新たに好ましい教えが説かれて、好ましい社会が実現することを示す寓意に他ならない。

宋常星『太上道徳経講義』(16ー11)

  宋常星『太上道徳経講義』(16ー11) 「天」とは「道」である。 「王の徳」は、つまりは天の徳と異なるものではない。「王の道」は、天の道と等しい。王と天とは一つのものであることを知らなければならない。天は高くあるが道から外れているものではない。天は大きいが道の中に納まっている。天も地もすべて道によって成り立っている。万物はすべて道によって成り立っている。「常」なるものの奥義を知るならば、よくこうしたことが分かるようになるであろう。つまり、天、地、人、物これらはすべて道によらなくて存しているものではない。「『天』とは『道』である」とはこうした意味である。 〈奥義伝開〉ここで最初の「命」に復するとは「道」に復することであることが明かされる。それは普遍的な原理としての太極・陰陽観を深く理解することである。また老子が殊更に「天」つまり原理としての「王」を強調しているのは、この「王」は太極・陰陽の原理を理解すれば誰でもなり得るものであるためでもある。あらゆる善とされるものには悪が含まれている。悪とされるものには善がある。これをよく知ることでより良く生きて行くことができると考えるのが老子であった。人はどうしても世の風潮に流されてしまう。そうしたことには大きな危険のあることを老子は警告する。人は誰でも「王」とならなければならないのであり、生まれながらにしてそうでもあるのである。

宋常星『太上道徳経講義』(16ー10)

  宋常星『太上道徳経講義』(16ー10) 世の中心に立つもの(王)はつまりは「天」と一体なのである。 あらゆる物からのとらわれから脱していて、優れた徳を持ち高い倫理を有しているのが「王」である。そして「王」は上にあっては「天」の働きそのものでもある。下にあっては「人」のあり方そのものである。天道を体して王道に立つ。礼楽や制度は王道を実践するためのものであるとしても、時によって具体的なやり方は異なる。こうした変化はすべて天の道の奥深いところといえよう。こうしたところからすれば、王の徳はけっして天の徳を外れるものではなく、王の道はけっして天の道と異なるものではない。こうした地位に達したならば、「王」はつまりは「天」と等しいことになる。「天」はつまりは「王」ということになる。「世の中心に立つもの(王)はつまりは「天」なのである」とは以上のようなことなのである。 〈奥義伝開〉太極・陰陽を完全に体現した「王」はその働きそのものであるから「天」とも一体である。老子があえて「天」だけを言い「地」を触れないのは、この「王」が普遍の時間に存するものであるからに他ならない。「地」は空間であり、それは実際の施政に関係するので施政の政策は時や場合に応じて変えていかなればならない。しかし「天」で象徴される「原理」は普遍のものとして存している。老子のいう「王」では特にこの部分が強調されていることに留意しておくべきであろう。普遍の原理としての「王」とは太極・陰陽の「理」そのものなのである。

宋常星『太上道徳経講義』(16ー9)

  宋常星『太上道徳経講義』(16ー9) 閉じていない立場にあれ(公)ばこの世の中心に立つ(王)ことができる。 「閉じていない立場(公)」ということを細かに考えてみるに、これは「無私の心」ということができる。そうなれば万物のすべてを「認識(性)」の中に取り込むことが可能となる。そこにあっては自分も万物も同じであり、こうした心の持ち方が充分であれば、自ずから物にとらわれるようなこともなくなる。それはかつての聖人が述べていることでもある。「至公の道」をして天下を「閉じていない(公)」ものと考えれば、天下は「至公の道」が実践されているところということになる。聖なる君主は「閉じていない立場(公)」にあって、上下も閉じた関係にあることはなく、天下も閉じていない。またこうしたことの他のシステムが存することもない。聖なる人は、閉じていない心を有しており、王道もここに立てられるべきである。そうであるから「閉じていない立場にあれ(公)ばこの世の中心に立つ(王)ことができる」としているのである。 〈奥義伝開〉よく「老子」を読む人で、ここにあるような「王」になることを肯定するようなところは、老子の通俗性が出ているようで嫌うことが多いようである。老子といえば山奥に隠棲していて、世の中のことに関わらないような仙人のようなイメージがあるらしいが、老子は道はこの世にあって実践されるべきものであり、この世を如何に生きていくかを解決するための方法として「道」が探究されたのであった。老子は完全に太極・陰陽を理解して世の中の道理を知ることができたならば、自ずから真の意味での王となっしまう、と考えていた。これは儒教も似ていて真の王は太古の時代に存したような聖なる王でなければならないとし、実際のそうでない王は討伐されるべきであると考えていた。ここで老子が述べている「王」は原理的に導き出されたもので、実際にはそうした「王」が出てくることはない。また、ここでおもしろいのはあらゆる人に平等に開かれてた「王」には公僕的なイメージを見ることができることである。後に民主主義の為政者のあるべき姿として見出されるような考え方を老子は既に得ていたようである。

道徳武芸研究 七星歩と玉環歩〜形意劈拳小考〜(4)

  道徳武芸研究 七星歩と玉環歩〜形意劈拳小考〜(4) 合気道の「裏」の入身が結果として玉環歩と似ている形になることは先に指摘しておいたが、これが玉環歩かといえばそうとはいえない。玉環歩の鍵は歩法の連続性にあるからである。わざわざ第一歩を擺歩で踏み出すのは、そのまま次の一歩を踏み出す流れを作るために他ならない。そうであるから八卦掌では擺歩と次に扣歩を踏むことで連続した歩法が可能となり、円周を途切れることなく回ることができているのである。擺歩は本来的には「後ろの足」を一歩踏み出すことで、丸い勢いを作り出して次の歩法を導くのであるが、形意劈拳では「前に出している足」を半歩、擺歩で踏み出すだけである。これは直線の歩法で構成されている形意拳のシステムに玉環歩をあえて取り入れようとしたために他ならない。形意拳の歩法はあくまで直線的に前に出る勢いを使っていて、八卦掌のような丸い歩法の勢いは用いない。劈拳の鷹捉で擺歩を直線において用いるところに「直」の勢いと「曲」の勢いを微妙なバランスで配合した形意拳の妙味がある。こうした形意劈拳を通して入身の歩法を考えてみるならば、始めに直線的な七星歩、合気道の「表」の入身があり、これが形意拳のベースとなった。次いでその変形として「裏」の入身、太極拳の四隅推手が考案されて、最後に玉環歩の擺・扣歩の入身が考案されたものと考えられる。玉環歩は李能然によって取り入れられたようであるが、これが後に形意拳に八卦掌を導入するきっかけとなった。現在でも七星歩はいまだに多くの門派で練習されている。それは七星歩が力を発するのに都合が良いからである。形意拳は七星歩をうまく取り入れた優れたシステムであり、八卦掌は玉環歩によって構築された最も優れたシステムであることを考えるなら形意、八卦を共に練ることには大きな意義のあることが理解されるであろう。