宋常星『太上道徳経講義』(17ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(17ー1)

天地と万物は等しく「一道」であるとされている。聖人と人々も等しく「一心」であるとされている。聖人は優れた世を正す能力があるわけではなく、特別なことをすることもない。また民衆の意向に逆らうこともないし、物に執着することもない。聖人が重視するのは特に知ろうとしないことにある。自分が何かを持つことを良しとしないことである。それは天の日や星のようにあるがままであって、太虚の存在さえをも忘れている。下にあっては人々に親しんだり、特別に人々を好ましく思ったりすることもないし、特に侮ることもない。普段の暮らしは他の人たちと変わりはなく、何ら気にしたりこだわりを持つこともない。それは水の中で遊ぶ魚のようで、魚が水の存在を忘れているように世の中のことに特に注意を払うこともないのである。すべては無為であることを「上」として、「下」において他に対する。住むところも普通で、特別なものは何もない。それは古い時代の淳朴な生活そのもののようでもある。そして、すべからく公明正大な生活を楽しんでいる。天下を治める道も、これ以上でもないし、これ以下でもない。


この章では古の聖なる統治者のことが深く考察されている。よく上下の情に通じて、自然に人々が治まるようにする。それは「一」に天下の「義」を信じることにある。


〈奥義伝開〉ここで老子はこの社会には「矛盾」があることを指摘して、それがどのように現れるのかにも言及する。そしてこうした「矛盾」は民衆がその存在に気づくことなく時には歓喜をもって迎え入れるものでもあることが述べられる。ここで宋常星は「次」とあるのを時代を追って世の中が悪くなって行く様子として解説をしているが、これは太上の認識の深まりを追うものと解した方が妥当であろう。


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