宋常星『太上道徳経講義』(17ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(17ー4)

さらにその次に(太上は)畏れさせ、またその次には侮られるようになる(のを見たのである)。

五帝の時代には更に文明が開けて来た。かつて太古にあっては「君主」も「臣下」も区別がなく共に聖なる知恵を持っていた。刑罰は行われる必要がなく、天下の人々は君主の存在を知ってはいるが、それを畏れるといったことはなかった。そして三王(禹、湯、文あるいは武とすることも)の時代になると、世に「道」は次第に忘れられて、人々の心はそれぞれ自分のことだけを考えるようになって行った。そうなると凶暴な行いをする者も現れ、刑罰をしてそれを制しなければならなくなった。刑罰が設けられれば、それを畏れない人は居ないであろう。しかし、そうなれば、それを逃れようとする人も出て来る。こうして刑罰を守ろうとしない人が現れるようになると、司法は円滑に働かなくなり、脱法行為がますます盛んになって行く。人の心や世の道は五帝の頃と比べるべくもない程、廃れてしまうこととなる。そうであるから、そうした世の中を「次の時代」として「君主の存在を畏れ」たり、それが「侮られ」たりするようになるのとしているのである。太古の人々のことを詳しく考えて見るに、素朴で自他の隔てもなく、何らの知識の蓄えもなく搾取(上 君主)を意識することもなかった。つまり「君主」から親しくしされたり、誉められたりすることもなかったわけである。その次の時代には親しくしたり、誉めたりしていたが、それはそれで道徳的な至誠の生活が送られていた。さらに時代が下ると太古の淳朴さは失われて。ずる賢さが生まれ、不忠、不孝も行われるようになった。仁が害せられて義が損なわれるようになった。結果、仁や義は意図して行わなければならなくなり、刑罰も設けざるを得なくなったのである。


〈奥義伝開〉搾取する側(上)とされる側(下)の矛盾がおおきくなり見せかけだけでは解消できなくなると「上」は「下」を力で抑え込もうとするようになる。ここで老子は「親」と「誉」については「次に」として二つを同時にあげているが、「畏」と「侮」は「次」に「畏」そしてまた「次」に「侮」とする。これは収奪がうまく行かない時に権力者は、先ずは力によって人々を抑え込むからである。「畏」をして「下」の人々を抑え込むのは一般的には「法律」による。そして法律は司法により権力者に都合の良いように運用される。しかし、それも限界が来る。「下」が「上」を「侮」るようになるわけである。こうなると革命が起きる。


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