宋常星『太上道徳経講義』(16ー14)

 宋常星『太上道徳経講義』(16ー14)

この章では、天には天の根があり、地には地の根があり、物には物の根があり、それは「致虚」の極みであるとしている。つまり天の根は「静」であり、それをよく守ることで、つまり「虚」である地の根と、ここに「虚」と「静」は共に生まれていることになる。谷神は死なない(第六章「老子」)とされるが、これはつまり人の根なのである。「虚」であればどのようなことでも認識する(神交)ことができる。「静」であればどのような気でもそれを感じることができる。これは物の根である。そうであるから根に帰することがなければ、「命」に「復」することもない。「命」に「復」することがなければ、「虚」や「静」の奥義を得ることもできないのである。そうであれば「常久」ということもありえない。「虚」や「静」の奥義を得ることがなければ、「閉じていない世界観(公明)」に達することもできない。また「虚」や「静」の奥義を得ることがなければ、「天と一体となり道を体得する(順天体道)」ことも不可能である。「虚」や「静」の奥義を得ることもないので危ういことこの上ない。そうであるから「虚」や「静」は、つまりは天地の本なのである。万物の中核となるのは「この身を修めて、国を平穏にし、天下に乱れがないようにする(修身、治国、平天下)」であるが、これらはすべてまったく「虚静の道」を外れるものではないのである。


〈奥義伝開〉この章は静坐とそれによって得られるべき境地についてかなり論襟的に説明されている。実際としては「静」の感覚を得るようにする。それが得られれば過度な執着から脱することができる。これが「虚」への覚醒である。どうして執着から離れることができるか、といえばそれは太極・陰陽の考え方を体得するからである。この世界観においては、あらゆるものが相対化されて接待的な価値を失ってしまう。これを普遍の法則である「道」と信じて生きて行けば、「死」の恐怖をはじめとして、あらゆる不安から逃れることも可能であるとする。こうした説明が正しいかどうかは分からないが、静坐の方法として「静」を得て「虚」の認識に至るということは、心身を活性化するひとつのプロセスとして古くから実践されているものではある。


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