宋常星『太上道徳経講義』(16ー13)

 宋常星『太上道徳経講義』(16ー13)

(道と一体であることが分かれば)この身が滅んでも心配することはない。

太古から存在し続ける、「常」に存することを、「真常の道」という。こうした「本来の道(本道)」を「体」とする。「道と一つになる(合道)」のは「用」である。つまり進退、存亡を知らず、吉凶、消長が明らかではなく、人々の関係性を乱し、何を行って良いか分からなくなっている状況、そうした中で必ず至るところは、自らの「身」と「道」との一体である。つまり自分と「道」とが一体となるのであり、「道」と自分とが一体となるのである。「道」には危ういものは全く無い。そうであるから「道」と一体となっている自分には危ういところはまったく無い。「この身が滅んでも心配することはない」とあるのは、そういう危うさがないということである。


〈奥義伝開〉この世は太極・陰陽で成り立っている。そうであるから「生」と「死」は離れることのできない関係にある。つまり「生」きているということは、「死」へと向かっているということでもあるわけである。そうなると「死」は受け入れるしかないものとなる。生死をひとつのものと考えることができれば、「死」への恐れもなくなると老子は教えているわけである。もしひどく「死」に対して苦痛を覚えるならば、それがどうしてか考えてみることも解決の一歩となるであろう。老子はあらゆることは過度のとらわれから脱却すれば苦痛は和らぐと考える。「死」もそのひとつである。


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