道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(1)

 道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(1)

植芝盛平は「合気道は愛の武道である」と教えていた。これを単なる「空言」「理想」「理念」であり、実際の合気道の修行とは関係ない、と思う向きもあるであろうが、そうではない。盛平は直感的に思いつくことをそのまま述べるタイプの人物であり、そうした人の言意すぐに理解が得られるというものではないが、その一方で、よく前後を見渡すと意外なほど正直な真意が見えてくる。一般的には直感的な発想に論理を付して他人に説明するのであるが、そうなると「直感的な教え」に論理的な整合性がとられることになって、むしろ余計な部分が混入してしまうことも少なくない。たとえば大本教でも出口なおの筆先は「われよし」とあるのを、王仁三郎の「大本神諭」では「体主霊従」と書いて「われよし」と読ませている。「われよし」は現在「利己主義」と解することが多いようであるが、「個人主義」や「自由競争」「市場主義」などとして理解することもできるであろう。このように筆先の「われよし」を「霊主体従」として限定してしまうと、大本教の中でしか通用しない教えとなってしまう。しかし、それを原文のままに「われよし」として理解しようとするならば社会批判、文明批判としてより広い意味を汲み取ることが可能となる。つまりインスピレーションによって得られた言葉とはこのようにいろいろな解釈が可能であり、そうした中でその真意が見出されて来るものなのである。


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