宋常星『太上道徳経講義』(18ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(18ー1)

大道というものの「用」を愚考してみると、それは無為にして「用」いれば適切に事が為されるが、これを有為にして「用」いるとそうはならない、ということになろうか。無為であれば適切に用いることができるのは、それが自然のままであるからである。まさにあるべきままであるからである。ただそれだけである。しかし、これこそが至誠の実理なのであり、そこに「私」というものが入り込む余地は無い。天理そのままであれば、上下は安定しており、何の問題の起こることもない。朝野にわたり人々は柔らかな心となって生活を楽しみ、なんらの人為を感じることもない。もし、これが有為にして世を治めようとするのであれば、必ず時代の影響を受けることになる。そうであるから変わらない人の心を基準とすることがなければ、どうして自然に安んずることができるであろうか。上も下も何事も無く居られるであろうか。有為でこの世を治めることができないのは、こうした理由による。

この章では「有為」ということについて述べられているが「至誠」「無妄」は天の徳である。おおいなる公の立場にあって無私であるのが、天の道である。無為をして天の動きのままであるのは自然の理である。どのような物でも等しい価値を認めるのは、聖人のおおいなる統治(至治)の徳である。いまだこうした聖人の徳を基盤としないで、適切に世を治めることのできたことはなかった。もし聖人の徳を用いないのであれば、それを補うのにかなりの作為を用いなければならなくなる。そうしたことをいろいろとしたとしても結局は無為で治める以上のことはできないのである。


〈奥義伝開〉ここで老子は後の共産革命の出現と失敗をも予言している。つまり太古の原始共産制である「大道=大同」の世が終わる(本当にあったかは別としt)と、そうした平等社会をまた実現しようとする共産主義という「知恵」が生み出される。しかし、それは余りに作為的であり、現実には真の平等社会とは程遠いものでしかなかった。これを老子は「知恵」の後には大いなる作為である「大偽」が生まれ、それはおおいなる偽りである「大偽」と教えているのである(「偽」には「つくりごと」という意味と「いつわり」の意味がある)。「大道」の世はあくあまで人の意識が「大同」にまで至らなければ達成されない。あらゆる人が「平等」に暮らすことで満足する意識状態にならなければ共産社会は作れないのであり、それを政治システムという作為によって成し遂げようとしたところに誤りが生ずるであろうことを、老子は既に予見していたわけである。


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