道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(3)

 道徳武芸研究 なぜ合気道は「愛の武道」なのか(3)

「合気道は愛の武道である」というのは、また盛平が述べているように「合気道の稽古は引力の稽古である」というのと同じで、相手と気を合わせることで体ではなく、意識を誘導することを練ることが合気道の稽古の目的なのである。つまり技がかかり始める前までが合気道の鍛錬なのであって、掛かってからはその余波を行っているに過ぎないわけである。技が掛かってしまえば、そこで止めることはできないので、結果として投げたり、固めたりという形にはなるが、それは主たる目的ではないわけである。これは大東流も同様で例えば複数によって一人を抑える場合、古い柔術の伝書などでは一人をうつ伏せにして手足や胴体を抑えることを教えているが、大東流では仰向けに抑えている。これは返し技を行いやすくしているためで、つまりはこの形が実戦を想定したものではない、あくまで稽古の便宜上生まれた形であることを示していることが分かる。こうした複数の人に抑えられて返す技は、多角的に注意力を展開することを磨くのにはひじょうに有効で、それを太極拳では「敷」字訣として教えている。


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