宋常星『太上道徳経講義』(17ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(17ー5)

つまり「信」が充分でなくなると、その分の「不信」が生まれるわけである。

民への「親」「誉」「畏」「侮」について深く考えてみるに、そのどれが実行されるかの責任は民にあるわけではないことが分かる。つまり「上」にある者に「信」が充分に得られなければ、民は「上」を信用することができなくなってしまう。そうなると民へ「親」「誉」が行われたり、「畏」や「侮」が現れたりすることになる。そしてこうしたところでは「信」は存することができなくなってしまう。民から「上」への信用もなくなるし、君主から「下」への信用もなくなってしまうわけである。つまり「上」と「下」がともに離反することになるのであり、こうなれば天下は乱れないということはない。五覇(桓公、文公、荘王、闔閭 こうりょ 、勾践 こうせん )の時代を見ているのに、「仁」や「義」の名を騙って、相手を騙して意のままにしようとしている。こうなると「上」でも「下」でも信用はなくなってしまう。ここに「『信』が欠けているところに、その分の『不信』が生まれることになる」とあるのは、こうしたことなのである。


〈奥義伝開〉ここで「不信」とあるのは「社会矛盾」のことである。収奪する側とされる側における格差などがおおきくなり過ぎると社会矛盾は顕然化する。そうなると「上」の「信」は失われてしまう。原文では「信足らざれば」とあるのは驚くべき優れた表現で民衆も次第に「何かがおかしい」と気づき始めるわけである。そしてついには「上」を信ずることができなくなってしまう。


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