宋常星『太上道徳経講義』(17ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(17ー7)

「人々の協力があって事業は完成された。人々は皆『わたしは自然のままにしただけ』と言っている」と。

「社会的な」ことは無為の徳によってのみなされるべきであり、「成功」は結局のところ「不言」の教えによらなければならない。また、これは「無為の徳」においてなされることでもある。もし「無為の徳」を充分に養うことなく、日々その実践を積み上げることがなければ「成功」を得ることはできないであろう。また、これは「不言の教」であり、決まった教義があるわけではない。これを実行するのには誠がなければならない。愼みを行うことがなければ「成功」を望むべくもないのである。そうでなければ「無為」が実践されていないからである。「成功」していなければ「不言の教」が行われていないわけである。「不言の教」が実践されなければ「無為の徳」を守ることもできていないわけである。つまり「不言の教」とは自然であるということであり、つまりは「無為の実践」なのである。「無為の実践」は「不言(きまった教えがない)」であり、かつ「自然」でもある。そうであるから、おおいなる変化を促すことができることになる。おおいなる「言」は言われることのない「言」なのであり(不言)、そうした「言」は信ずるに足りる。そうなれば民も自ずから「不言」の「言」を信ずることであろう。こうした「不言」の「言」を信ずることは、人々が形あるものを信ずることと、何ら違いがあるものではない。人々が信ずることができるものであれば、自分も信じることができるであろう。こうしたことは期せずして自然にそうなるものである。期せずして信じ、自ずから信ずるようになるのである。人であって自然でないものはなく、人であって信用ならないものは本来はない。そうであるから自然に感じたことが言葉として発せられるのである。社会的に成功し事業を達成できたことを人々が、これは自然になされたものと考えれば、その成功を人々皆が喜ぶことになる。つまりこれは自覚しないで発せられた「言」と同じで、まったく自然なことであるからである。太古の様子を詳しく考えると、人々は耕して食べていた。木を削って器を作って飲んでいた。こうしたことが特に教えられなくても自ずから行われていたのである。こうした中にあって政治の恵みを民は実感することもなかった。「不言の教」の行われていることを民は知ることがないのであり、ここには「無知の楽しみ」があった。つまりあらゆるものが「自然」のままであったわけである。しかし人々が自分たちは自然の中に居ると認識するようになると、自然と人が分離してしまった。しかし「太上」は今の社会を太古の社会と同じにすれば良いとする考え方の危険性を知っていた。この章では治世のことを述べているが、治世はつまり修身にあるとする。修身が国家レベルで行われれば人々は安らかに暮らすことができるようになる。個人が修身を実践すれば、「性」を養うことができる。そうすることで(太古の社会にもどさなくても)不適切な人間関係は清算され、無為、無欲に向かうことになる。自分の「心徳」を養い、七情があるとしても、それがむやみに用いられることがなくなる。六意(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、知覚)があるとしても、それを通して得た認識に執着することもない。つまり(精神活動の根本である)「性」は、世が栄えているような時には、「帰根復命(本来の姿にもどる)」をすることや「抱朴還淳(執着を捨てる)」となることは不可能なのである。「情」や「識」のとらわれから解放されることができなければ、「知」や「巧」のとらわれから脱することもできない。人であれば他者への「親」や「誉」の心は等しくある。いろいろな修行をしなくても、非情なことをなすのを忘れ、不忠、不信で、手先の巧みさを捨てればそうした心は出て来る。これは「畏」や「侮」の心が、本来的に人にはなかったのと同じである。修行をする人は「親」や「誉」を意図的に行うことをよろしく無いと考えるのは、無為であり、無修であるからで、「不言の信」を実践しているからに他ならない。こうなって初めて真の意味で社会的に成功をしたり、名を成すようになったりすることができるのである。そしてこうしたことのベースにあるのが「自然」なのである。


〈奥義伝開〉人々が言う「自然」のままというのは「あたりまえのこと」ということである。「下」であるから「するのはあたりまえ」と思わされていることをやらされて「事」がなされるのであるが、民衆は特に不満を抱くこともない。ここに引用されている「ことわざ」は本来は大きな事業をなした人は「ただあたりまえのことをしただけ」と自分を誇ることもない、という意味であったと思われる。偉い人ほど偉ぶらないということであろう。しかし老子は、人々が自分たちのさせられていることの意味も分からず、「当然のことです」と喜んでいる愚かさをそこに読み取った。多くの税金が浪費された儀式を人々が喜んで受け入れるのもこうしたことのひとつである。


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