宋常星『太上道徳経講義』(16ー9)

 宋常星『太上道徳経講義』(16ー9)

閉じていない立場にあれ(公)ばこの世の中心に立つ(王)ことができる。

「閉じていない立場(公)」ということを細かに考えてみるに、これは「無私の心」ということができる。そうなれば万物のすべてを「認識(性)」の中に取り込むことが可能となる。そこにあっては自分も万物も同じであり、こうした心の持ち方が充分であれば、自ずから物にとらわれるようなこともなくなる。それはかつての聖人が述べていることでもある。「至公の道」をして天下を「閉じていない(公)」ものと考えれば、天下は「至公の道」が実践されているところということになる。聖なる君主は「閉じていない立場(公)」にあって、上下も閉じた関係にあることはなく、天下も閉じていない。またこうしたことの他のシステムが存することもない。聖なる人は、閉じていない心を有しており、王道もここに立てられるべきである。そうであるから「閉じていない立場にあれ(公)ばこの世の中心に立つ(王)ことができる」としているのである。


〈奥義伝開〉よく「老子」を読む人で、ここにあるような「王」になることを肯定するようなところは、老子の通俗性が出ているようで嫌うことが多いようである。老子といえば山奥に隠棲していて、世の中のことに関わらないような仙人のようなイメージがあるらしいが、老子は道はこの世にあって実践されるべきものであり、この世を如何に生きていくかを解決するための方法として「道」が探究されたのであった。老子は完全に太極・陰陽を理解して世の中の道理を知ることができたならば、自ずから真の意味での王となっしまう、と考えていた。これは儒教も似ていて真の王は太古の時代に存したような聖なる王でなければならないとし、実際のそうでない王は討伐されるべきであると考えていた。ここで老子が述べている「王」は原理的に導き出されたもので、実際にはそうした「王」が出てくることはない。また、ここでおもしろいのはあらゆる人に平等に開かれてた「王」には公僕的なイメージを見ることができることである。後に民主主義の為政者のあるべき姿として見出されるような考え方を老子は既に得ていたようである。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)