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第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(9)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(9) 日本で「拿」が広く練習されるようになったのは大東流が出現してからである。大東流の技法は合気道として展開されて広く知られるようになった。また八光流も一時期、かなりの修行者を集めた。八光流からは空手の本部御殿手なども生まれている。この流れは現代でも沖縄の中国武術で「拿」への強い志向を見ることができる。同じく空手では合気道から出た親英体道に影響を受けた松濤館空手や新体道などが出ている。このように特に優れた実戦性が実証されているわけでもないのに近現代の日本では「拿」の系統の武術が不思議なほど広く行われるという特異な状態が出現している。もちろん「拿」が実戦に使えないということではない。また競技試合で使いにくいのは相手が逃げるのが原因である。「拿」は一種の「返し技」なので、相手が逃げると掛けることは難しい。合気道でも大東流でもほとんどの技が相手の攻撃を受けて行う形になっているのは、基本的に「拿」が「返し技」であるからに他ならない。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(8)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(8) 嘉納治五郎が構想していた柔道は「やわら」の理念を核とした「日本武道の総合」にあった。それは一般に見られる組んだ状態のものに加えて、離れた状態から始める離隔法も必要とされ、そこに合気道の技法が求められた。他に武器に対するものも考えられた。また当身にかかわる技法は空手が参考にされた。これらは講道館護身術、五方当などとして残されているが、その多くは形式的な伝承に留まっている。嘉納は「やわら」の考えをベースとしてあらゆる古流を見直すことで最高の日本の武道を講道館で構築できると考えていたようなのである。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(7) 

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(7)  実際に大東流や合気道などで展開されている逆手(関節技)は実戦ではなかなか掛けることができない。それは合気道の系統で試合ができないことにも表れている。一応、合気道では理念として試合をしない、ということになっているが、試合を行っている会派ではおおよそが「打ち合い」になってしまい、関節技はほとんど見ることができない。また投げを使っていてもそれは柔術や柔道の技である。つまり合気道系で競技試合ができないのは理念的(万有愛護の思想)なものと並んで逆手技が掛けにくいという現実もあることを忘れてはならない。早くから合気道の試合化を模索していた富木謙治は柔道の出身であることもあって、競技試合の「合気道」は柔術技法を取り入れるなどしている。これは試合競技としての合気道を「柔道の枠組み」に入れることを志向しているようである。実際、合気道の競技試合は「柔道第荷二乱取り法」と称されていた。これには富木が講道館から合気道を柔道に取り入れるために派遣されたとという歴史的な経緯も関係していよう。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(6)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(6) 「拿」の問題点は演武ではきれいに掛けることができるものの相手に抵抗されるとなかなか技を掛けるのが難しいところにある。そのため実戦では「打」で相手の戦闘能力を抑えておいてから「拿」を用いると教えられることになる。教門長拳の名手で「拿」にも優れていた韓慶堂の著書に『警察応用技能』があるが、「拿」とは先に指摘した柔術と同じく相手を取り押さえる、という特殊な場面でのみ価値を有するものなのである。通常の攻防では相手を制して逃げれば良いわけで、あえて取り押さえる必要もない。中国で「拿」があまり練習されないのは、それが「掛けにくいもの」であること、そして「特殊な場面でしか使えないもの」であることがある。 

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(5)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(5) 興味深いことに日本では近代になって「拿」の体系の武術が広く出現するようになった。大東流もそうであるし、合気道や少林寺拳法なども「拿」を中心としている。大東流は古武道大会にも出ているが、その存在が確かになるのは近代になってからで、柔道よりも新しいともいえる。近世におおいに発達した柔術でも「拿」の技法はある。しかし、それは殿中などで狼藉物を取り押さえるための技術として備えられていた。例えば大東流の五人捕で、仰向けに寝ているところに胸の上に一人のり、他の四人はそれぞれ手足を抑えているのを投げ飛ばす技法があるが、柔術の伝書ではこれは抑えるための技法として出ている。その場合にはうつ伏せにする。仰向けであれば五人捕は可能であるが、うつ伏せになると手足の可動域が極端に小さくなるので返すことはできなくなる。つまり近世あたりの「拿」は相手を抑えることをもっぱらとしていたのである。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(4)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(4) 世界的に武術はボクシング系とレスリング系に分けられるとされている。中国大陸は大部分がボクシング系(打)であり、日本はほとんどがレスリング系(シュツ)である。おもしろいのは世界において「拿」の逆手の体系は独立しての「武術」と見なされることがないという点である。擒拿は大体において応用として習われており、独立した技法体系とは見なされていない。「打」の系統であれば倒した相手を抑える時によく使われるし、「シュツ」の系統では投げのプロセスの途中で逃さないように関節を用いることもある。擒拿は正手、反手、破手で成り立っているが、正手は相手から掴まれたり、打たれたりする状態を想定したものでこれは合気道などと同じである。反手はこちらから仕掛ける掛け手といわれるもので、破手は返し技である。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(3)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(3) 中国武術では攻防の技法の展開を「打」「拿」「シュツ(手偏に率)」とする。「打」は打撃であり中国武術は中国「拳法」と称されるように「打」が主となっている。「拿」は逆手術で擒拿という技法体系がある。また「シュツ」は中国相撲と呼ばれるシュツ角が知られていて、台湾では常東昇が「花胡蝶」の異名を得て華麗な技を見せていた。これはひとつの技が決まらなければ次々と技を繰り出す華麗さを形容している。つまり常東昇ほどの名人でもなかなか技を極めることは難しいということである。ちなみに常は太極拳も研究していて常式太極拳が伝えられている。これはシュツ角の技法を織り込んだおもしろい構成になっている。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(2)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(2) 井上靖の『星と祭』では琵琶湖湖東の村々に祀られている観音像をひとつの重要なアイテムとして使っている。物語が展開してく中でヒマラヤ山麓の美しい寺院への登山行も描かれるのであるが、その中には以下のような一節を見ることができる。 「僧院と言うからには、生きるということを、少なくとも世俗の人たちよりも真面目に考えている人々が住んでいると見ていいだろう。いかなる戒律を己に課しているか知らないが、不自然であろうと、ゆがんでいようと、自分がよしとした生き方を選び、実行している人々が住んでいることだけは確かである」(『星と祭』上)  これは主人公がヒマラヤ山麓のチベット仏教の僧院(タンボチェ僧院 ネパール)を思って考えたことを述べた部分であるが、「不自然であろうと、ゆがんでいようと、自分がよしとした生き方を選び」とは実に優れた洞察によるものといえるのではなかろうか。釈迦以外誰も成功したことのない悟りへの道をあえて歩もうとしているのは「自分がよしとした生き方」を選んで実行しているというより他に言いようのないものである。普通は一応は「成功」が保証されている道を人は歩もうとするものであるからである。合気道の技法もそうであるのであろうか。それが使えると信じる以外に頼るものはないのであろうか。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(1)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(1) 合気道における実戦とはどういったものであるのか。実際のところ合気道の技法は練習や演武の時には鮮やかにきまるが、相手が逆らうと極端に掛けにくくなる。「実戦では当身を使う」とされることもあるが、これもよく言われるようにそうであるなら当身の練習をしなければならないわけであるが、そうした傾向は見られない。立ち止まって合気道の実戦性を考えると、あるいは従来の格闘術としての武術とは違った立ち位置にあるのではないかと思われるのである。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(13)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(13) 形意、八卦、太極の三拳を練ることは攻撃における「梢節(形意)=威力」と「中節(八卦)=変化」そして防御における軽やかな身法を「根節(太極)=軽霊」で練ることが可能となる。重要なことは形意拳や八卦掌、太極拳といったシステムにより自分を規定してしまうことではない。自分の中にある梢、中、根の三節を充分に使えるようになることにある。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(12)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(12) 太極拳で「根節」を使うのは相手の攻撃を左右に体を開けてかわす入身の動きをするためで、その動きは推手にも見ることができる。推手で半身ではなく全身を相対する形で行うのは左右の体の変化を練りやすくするためである。太極拳における根節の使い方は一般の武術のように攻撃を主眼として用いるのではなく、防御において使われる。ちなみに陳家も根節を使うが、それは攻撃であるから多くの武術と原理的には同じで、下半身を安定させて腰の動きを充分に利かせる。太極拳の「根節」を使った入身はいわゆる交差法を使うもので、これは呉家の前傾姿勢に見られるように間合いが通常より近くなるので相手は避けることが難しい。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(11)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(11) 龍形八卦掌では片足をあげる独特の動作を行うことでよく知られているが、これは八卦暗腿の応用を示すものである。この姿勢から扣、擺、括、トウ、点、タン、掛、採の八種類の腿法へと変化をする。ちなみに龍形でも定歩では片足をあげるのではなく一般的な八卦掌と同じく扣歩となって転身をする。八卦暗腿が可能であるのは中節の動きであるからに他ならない。中節の動きは肘と膝を中心に動くことになる。これに対して根節は肩と腰が動きの起点となる。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(10)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(10) 中節を用いる武術の特色は「中段の構え」に見られるように腕を「く」の字にしたまま体の推進力によって威力を得るところにある。こうした動きの変化がないところから「硬打」あるいは「硬拳」という名称で呼ばれることにもなっている。形意拳では「硬打硬進」の拳訣があるがそれは形意拳で中節が用いられることのあるためである。また八卦拳では十二転肘の拳訣があるが、これは肘法つまり中節の動きを象徴的に示すものといえよう(十二転肘という技があるわけではない)。また蟷螂拳では八肘なる形もある。蟷螂拳は梢節を用いるもので、応用としてこうした中節を用いる方法も伝えられている。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(9)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(9) 武術の発達史から考えると始めに根節が見いだされ、次いで梢節、そして中節が考えらえるようになったのではないかと思われる。ちなみに八卦拳は中節をベースとする。形意拳では十二形拳が中節を練るものとして存している。よく五行拳と十二形拳では動きがあまり違わないので十二形を練ることの意義を見出しにくいと考える人もいるが、これは応用としての中節を練ることを目的としているものなのである。また八卦拳が形意拳の応用として容易に取り入れられたのも、それが中節をベースとしているためであった。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(8)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(8) 梢節を使うと速く動くことができるが威力は少なくなる。一方、根節から動くと速さをやや欠くことにはなるが強く打つことができる。実戦ではとにかく相手に当てなければ意味がない。そこで梢節から動くことが重視される。少しのダメージでも、それをヒットさせて相手の動きを止めることができれば、人体には弱い部位はたくさんあるので攻防を優位に展開できるわけである。また威力を求める根節を用いる攻撃には、早く相手を倒してしまわなければ反撃を受けやすくなることへの危惧がある。どちらの戦法をとるかは個々人の判断となろう。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(7)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(7) 形意拳では特に「梢節」で打つことが強調されることは既に再三述べているが、中国武術には根節、中節、梢(末)節をして人体と打法の関係をとらえようとする考え方がある。多くの武術は「腰を使って」と教えられるように「根節」をベースとしている。それはこれが最も強い力を出すことのできる方法であるからに他ならない。形意拳では跟歩という継足を用いるが、この時に根節から動くと、歩法が体より先に進んでしまうので上半身のブレが生じてしまう。このため形意拳では「拳を追いかけるように体を使う」と教えられるのである。つまり「腰から動く」のではなく「拳から動く」ということで、こうすることで梢節からの速い動きが可能となる。
  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(6) 「ランニング」と「サンドバック打ち」は重要な練習ではあるが、それだけで武術のすべてが学べるわけではないことは前回指摘しておいた。ただ、これらは実はひじょうに合理的な練習方法であって相撲で「四股、すり足」「鉄砲」などが重要とされているのも同様である。これと同じことを形意拳では五行拳として提示している。五行拳の歩法は継足(跟歩)をベースとするもので、これにより基礎体力を養成することができる。また五行拳の中段の構えから拳を打つ形はサンドバッグを打っているのと動作の上では変わりない。こうしたところに形意拳の現代武道に通じる合理性を見ることができるわけである。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(5)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(5) 現代武道の「強さ」の秘密は競技組手を重ねることで、攻防に必要な練習として「ランニング」と「サンドバック打ち」を見出したところにあろう。これらを核として練習が組み立てられ、従来の武術のような多くの形を練ることにあまり価値を見出すことがない。「試合」となるとどうしても勝ちたくなる。そうした欲求の中で、学ぶべきとされる「使えない形」は顧みられなくなってしまう。伝統的な武術の稽古は競技試合で「勝ちたい」と思うような強い欲求がないために、使えるかどうか分からないような形でもありがたく習っておける環境がある。ただ武術の最終目的が「競技試合」にないことは知っておかなければなるまい。そうであるか「ランニング」と「サンドバック打ち」を偏重する練習をあるべきものとすることはできないことにはなる。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(4)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(4) 梢節を用いる武術は独特であることもあって形意拳において「根節」をどのように使うのか、は大きな問題である。多くの形意拳の修行者は形意拳を「根節」によって使おうとする。そうなると相手の変化に対応できない。形意拳には「鷹捉」の拳訣もあるように、鷹が相手を捉えるような速さをもって、相手の動きを捕捉することが求められるのであり、それは梢節による動きを基本としなければ果たすことはできない。一般に「根節」を使うには下半身を安定させて、腰の回転を充分に使う必要がある。これを形意拳では体を移動することで腰を回転させて得られるのと等しい勢いを得ようとする。このため跟歩という特殊な歩法が必要となる。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(3)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(3) 李存義や張兆東らが八卦拳に興味を示したのは形意拳の中で研究されていた「滾勁」をより適切に表現する方途として八卦拳に一日の長を認めたために他ならなかったのであり、そこには八卦拳の中でも特に滾勁をよく表している「八卦掌」を取り入れる必然性もあった。加えてそれは中節の動きである走圏をベースとするものでなければならなかった。八卦拳の「八卦掌」には羅漢拳的な変化をする梢節の動きの変化もあり、八母掌的な変化では中節を使う動きとなる。つまり「八卦掌」は八卦拳にあって羅漢拳と八母掌をつなぐ働きを有しているわけなのである。「滾勁」は中節を有効に使うには欠くことのできないもので、八卦拳では「纏綿掌」と称して重視している。簡単にいうなら「滾勁」は中節を通して梢節と根節をむすぶものなのである。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(2)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(2) 形意拳はひじょうに優れたシステムであるが、あまりに単純化されたエッセンスだけを練るやり方は長い中級レベルを脱することがなかなか難しい。初級を終える二、三年は珍しいこともあってモチベーションを保ちやすいが、ある程度の習熟を迎えて本当の味わいを知る上級に達するまでの中級の数年は単純なだけの動きでは、それを乗り切ることが難しい。そのため形意拳でもいろいろな套路が作られた。古いものには連環拳や鶏形四把などが見られ、現在では相生拳や相剋拳などいくつもの套路がある。しかし、形意拳は五行拳という「究極の形=中段の構え」をベースとする体系を構築してしまったためにそれからの変化が実に難しくなり、どうしても中段の構えから大きく違ったものにはなり得ず「多彩な套路」を体系の中に組み込むことができなった。

外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(1)

  外伝7 形意、八卦、太極拳で三節を練る(1) 本来、形意拳、八卦拳、太極拳は別の武術であるが、近現代になると等しく「内家拳」として三拳を共に練る傾向が生まれた。その始めは形意拳家の李存義、張兆東が八卦拳を学んだところから始まる。彼らは共に天津の武術家であり、形意拳を広く中国全土に普及するのに功績があった。八卦掌には李、張派の形意拳を通して広がったという独特の歴史がある。太極拳はこれも形意拳家の孫禄堂が八卦掌を学んだ後に太極拳を習得して、三拳を教えるようになったのが体系的に三拳の教授を行った最初ではないかと思われる。このように三拳を共に練るシステムは「形意拳」の中から生まれて来たのである。

第三章 「純粋武術」の発見(13)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (13) 「護身」は自己保存欲求によるものでそれは本能であると考えられる。つまり「攻撃」は「護身」から派生したものと考えられるわけである。そうであるなら強いて「護身」ということではなく、「自然」な動きを得ればそれは自ずから「護身」の働きを持つのであり、そこには「攻撃」として展開されるものも含まれていることになる。ここに武術の「攻撃」と「護身」が矛盾することなくひとつのものとなる。純粋武術とはこうした人の生存本能によるものであり、「攻撃」や「護身」の一方に偏って技を習得しようとすると矛盾を抱えたシステムは崩壊に向かってしまう。それは、同時に心身のバランスを崩すことにもなるのである。「攻撃」も「護身」も超越した動きこそが「純粋武術」としての動きなのであり、それは日常生活に還元され、日常生活から敷衍され得るところのものである。

第三章 「純粋武術」の発見(12)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (12) 攻防の動作を抽象化することで攻撃と護身の矛盾は解消できると考えられ、そこに「虚」という概念を見出したのは 孫禄堂であった。孫禄堂はあらゆる武術のテクニックの根源には「虚」があると考えたのである。「虚」をベースにすれば形意拳 の動き も 、 八卦拳も 、太極拳も個々の動きの意味を失わせて、ただの「動き」 に還元できると考え たわけである 。 「実」の動きには意味がある。一方、「虚」なる動きには意味がない。八卦拳では「縮伸」をいうが、これは八卦拳の動きがすべて「縮伸」に還元されるためで、これは手なら手を伸ばしたり、縮めたり(引いたり)する「動き」であり、八卦拳の動きはそれによって構成されているので、これは日常的な動きと何ら変わらないともいえる。「虚」の武術は自然な動き、つまり日常的な動きに近いものであるから、それは一見しては「攻撃」の動きを見出し得ないものであった。既に述べたが特に「攻撃」の動きは心身にストレスをかけなければ成立しないため日常の動きからは大きく乖離している。

第三章 「純粋武術」の発見(11)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (11) 「動作の無意味化」を考える上でヒントとなったのが「内功」を養うとされていた形である。「内功」は太極拳などでよく言われるが、少林拳でも重視される。秘宗拳には長拳と称する「内功」を養う形がある。太極拳と少林拳で「内功」を養う場合に大きく異なるのは太極拳が「鬆」を旨とするのに対して少林拳は「剛」であることで、「剛」を練るには、それぞれの動作にかなり力を籠めて行う。これは易筋経においても同様である。「内功」の形は攻防のスタイルをとるが、そこでは攻防の意味は抽象化されている。それは「太極拳が実戦に使えるのか」という疑問を生み出すことにもなっていよう。太極拳の形は「内功」を養うものであるから、それがそのまま攻防の動きになっているわけではない。攻防の動きは抽象化され「無意味化」されているわけである。

第三章 「純粋武術」の発見(10)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (10) 近代社会にあって武術が学ぶ価値あるものであるためには、相手を殺傷する能力を身に着けるための方途ということだでけでは充分とは考えられなくなって来た。そこで更に護身的な部分がおおきく見直されることになり、これが攻撃と護身という矛盾をますます大きく認識させるようになる。そこで考えられたのが「動作の無意味化」である。拳を出すという動作は相手を打つという意味を持つが、これをゆっくりと出すのであれば、拳を伸ばすという行為だけが残ることになる。その行為が激しく行われれば「突き」という意味を持つことになる。

第三章 「純粋武術」の発見(9)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (9) 西欧では大学を中心とした 「知の普遍化」 が文化の発達に大いに寄与したとされる。そこで閉鎖的な 「門派の弊害」 を打ち破る方途として国術館ではいろいろな門派の教師を招き、学生にはその下でひとつの門派にこだわること無く学習することで知見を飛躍的に広げることができると考えられたのであった。ブルース・リーの截拳道などもいろいろな武術の有効な技術を習得することが重要と考えていたようである。日本でも藩校などでは一刀流の剣術と宝蔵院流の槍術そして真楊流の柔術といったように複数の流派が教えられていた。現代でも SP は柔道と剣道の有段者であることが条件とされる。先にも触れたように武術の攻撃部分だけでいえば基本的な体の使い方と運動能力があれば充分であるので、こうした学びも可能となるわけでなのである。

第三章 「純粋武術」の発見(8)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (8) 民国時代になると一部に「純粋武術」の模索をする人たちが現れて来る。 それは「門派の弊害」と「国術の確立」という二つの運動とも関連していた。「門派の弊害」は清の始まるころの二百年前くらいまでは中国が最先端にあったともいえる科学文明が、民国の始まる二十世紀にはヨーロッパに大きく後れをとることになった。その原因が知識の共有にあるとされたのである。確かに近世の二百年間に中国でも実に目覚ましい発明、発見があった。しかし例えば数学における大発見もそれは「秘伝」とされて、他の分野に活かされることがなかった。また建築で大きは発明があっても、これも「一子相伝」となって他に伝えられ発展することがなかったのである。そうしたこともあり武術でも門派がそれぞれ技術を秘密にしていたのでは、将来が無い、と思われるようになった。そのため国家的なプロジェクトしての国術館政策などが模索されるようになる。これは日本の柔道に習ったもので、結局は武術を強い軍隊を作る基礎としようとする意図があったことも間違いのないことである。

第三章 「純粋武術」の発見(7)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (7) 軍隊や警察では厳格な規則と統制が求められ、戦争をする国家では同様にそれが国民全体に強制されるのは「攻撃」ということがそうした強制を行わないと可能とはならない行為であるためであろう。つまり個々人がよく行動の意味を考えるようになると「攻撃」をすることはできなくなるわけである。それは警察など正当な理由があれば「攻撃」を正当化できる場合であっても、そうした職業に従事する人たちは精神的な抑圧が大きいとされる。それは「攻撃」が人間としての本質に反する行為であるからに他なるまい。そうであるなら「純粋武術」は攻撃ではなく護身にあることになり、それが「武道」が「武術の最終形態」であると考えられるようになったこととも関係しているであろう。

第三章 「純粋武術」の発見(6)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (6) そこで改めて武術の本質は攻撃か護身か、を問うとするなら、武術の流派が成立するのが戦いの時代ではないことでも分かるように高度な技術が必要なのは護身の方にある。あるいは競技試合に勝つには基礎体力と基本技術を身に着けることで充分であり、型などの高度な技術を習得する必要性は無いと感じる人が少なくないのも、相手を倒す攻撃に関してだけであれば高度な攻防の文化は「無用の長物」であるとの証となり得るものなのであろう。相手を制したり、攻防そのものが生じる前に抑えてしまったりする時に高度な心身を操作すること必要とされる。そうであるから高度な心身の操作を学ぶ「武術」は戦いが生じないことを第一とするので、こうしたことを前提とするなら、そもそも競技試合自体が成立しなくなる。

第三章 「純粋武術」の発見(5)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (5) しかし、新陰流において攻撃と護身、殺人剣から活人剣への展開は結局は禅の境地である「無」にいたるものとするだけで、なんとなく技のとらわれから脱することで、ここに攻撃と護身とのプロセスとしての親和性が認識されて、攻撃と護身がひとつにつながるようなイメージが形成されつつあったに過ぎず、システムとして攻撃と護身は融合されることはなかった。それは近世以降は刀を使って斬りあいをするという攻撃部分の必然性が薄れたことと関係してもいよう。そのため攻撃と防御の矛盾が見えなくなったことと、新陰流そのものが熱心に修行される環境が失われつつあったこともあり追究は途中で止まった形になった。