第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(2)

 第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(2)

井上靖の『星と祭』では琵琶湖湖東の村々に祀られている観音像をひとつの重要なアイテムとして使っている。物語が展開してく中でヒマラヤ山麓の美しい寺院への登山行も描かれるのであるが、その中には以下のような一節を見ることができる。

「僧院と言うからには、生きるということを、少なくとも世俗の人たちよりも真面目に考えている人々が住んでいると見ていいだろう。いかなる戒律を己に課しているか知らないが、不自然であろうと、ゆがんでいようと、自分がよしとした生き方を選び、実行している人々が住んでいることだけは確かである」(『星と祭』上)

 これは主人公がヒマラヤ山麓のチベット仏教の僧院(タンボチェ僧院 ネパール)を思って考えたことを述べた部分であるが、「不自然であろうと、ゆがんでいようと、自分がよしとした生き方を選び」とは実に優れた洞察によるものといえるのではなかろうか。釈迦以外誰も成功したことのない悟りへの道をあえて歩もうとしているのは「自分がよしとした生き方」を選んで実行しているというより他に言いようのないものである。普通は一応は「成功」が保証されている道を人は歩もうとするものであるからである。合気道の技法もそうであるのであろうか。それが使えると信じる以外に頼るものはないのであろうか。


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