投稿

10月, 2020の投稿を表示しています

道竅談 李涵虚(153)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(153)第十七章  神、気、精を論ずる 「そうでありますか。ありがとうございます」 「天地が人を生むのである。そうであるからこの世に天の道が立つのであり、天の徳が行われるのである。そうであるから内に真を成せば、外に出て活動しても問題のないことになる。天地の造化は広大で、これがなければ仙道が盛んになっても、人道は必ず衰えてしまうことであろう。そうであるから人が生まれる『順』な道で天の道を実現することができなければ、仙が生まれる『逆』の道が重んじられることになるのである。これが人元の大道である。こうして天はひとつひとつ万物を作って行き余すところがないのであり、それは天地の範囲を越えることはない。ただ人はここに神、気、精のあることを知れば良いだけである」 〈補注〉「天地の造化」は「天の道」である。それによりあらゆる物が生み出されている。そうであるから人元のレベルでも天の道は実践することが可能とされる。神仙道においてもただに後天の「精、気、神」を整えるだけの修行であれば、天の道は行われない。必ず天の道を開くための修行である「人元の大道」が修されなければならない。童子の頃に神仙道に出会ったならば「順」の修行をしていれば良い。「順」の修行とは特別なことをしないということである。「逆」の修行とは導引や瞑想などを行うことで、それを経て忘れてしまった「天の道」「天地の造化」を再び開くことをいう。

道竅談 李涵虚(152)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(152)第十七章  神、気、精を論ずる 或いは「天元はそれほど重要なことなのでしょうか。どうか天元について説明をしてください」と問われれば、わたしは次のように答えるであろう。 「天元とは、天地が陰陽五行をして、それを化して人や物を生じさせるところのものである。気をもって形をなすのであり、理がまたこれに付与される。人の気は元気から生まれる。父母がいまだ交わりを持たない前にこの気は現れることも活動することも無くただ存している。父母が交わりを持った時にこの気はそこに下って活動を始める。儒家のいう『天が諸人を生む(天、蒸民を生む)』『物質のあるところ法則がある(物あれば則あり)』がこれである。この気はひじょうに不可思議なもので、不可思議であるから神を有しているといえる。この神は元神である。またこの気はひじょうに清らかである。清らかであるのは至精であるからに他ならない。この精は元精で、子供を身ごもる前、そこには元気が存しており、ここでは後天の呼吸の気はいまだ活動をしていない。こうして十か月で子供の形が完全となる。口や鼻の形もかすかに伺うことができるようになる。この時、子供は母親の呼吸を通じて、外にある天地の太和を取り入れている。それと同時に血は陰神を巡らせることになる。こうして呼吸ができるようになって行くのであり、後天の神と気の二つが完全なものとなって行き、この世に生まれ出ることになる。都合の良いことに生まれたばかりの時は、口はものを言って考えを述べることはできないし、目は笑って感情を表現sることもできない。知識を得ることもないし、分別をすることもなく、元気と一体化している。思うことも考えることもないので陰神も働くことがない。元気と元神は互いに助けあって養いあっている。そして十六歳になると神が完全となり気も充分となる。こうなると陽が極まって陰が生ずる。そしてそれが変じて後天交感の精が生じることになる。そして欲火が盛んとなり、陰神が思いのままに働くようになる。そうであるから徳のある子供が師に逢うことができれば、天元の体を清静のままで修行に入ることができ、そのまま特別な修行をしてなるのではない『無為の天仙』となることができる。もし後天の働きが出てしまうと先天は後退することになる。そうであるから『天元は修行しやすい』と言われているのである。どうして性的な欲望を持

道竅談 李涵虚(151)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(151)第十七章  神、気、精を論ずる 〈本文〉 「心印経」には「上薬には三品ある。神と気、精である。これは修丹の妙物で、そこで最も重要なのは元神、元気と元精であり、真精、真気と真神である」と記されている。ここでの「元」とは何であろうか。それは「先天」である。「真」とは何であろうか。これも「先天」である。先天の「元」とは生まれる前に生じているということであり、「童子の天元」とは童子は生まれる前のもの(先天)を失うことなく有しているということである。先天の「真」とは大道を成すもので、我々の人元においてそれが実践される。「(先)天」を得ることなく修行をしたならば、それは必ず人元に留まるものとなるであろう。 〈補注〉神仙道の修行で最も基本となるのは「精、気、神」である。そして、一般に修行で用いられているのは後天の「精、気、神」とされるが、それには先天の「精、気、神」があるとする。また先天の「精、気、神」には「元」と「真」がある。西派では「元」と「真」を別なレベルとするが、多くの流派では「元」がつまりは「真」であると教えている。つまり後天の「精、気、神」は不完全なものであり、先天の「元精、元気、元神」は完全なものなのでこれを「真精、真気、真神」であるとするわけで西派のように「元」と「真」をあえて区別することはしない。また、ここでは「童子の天元」が取り上げられている(「天元」については次に詳しく述べられる)が、要するにこれは「天地の造化」のことでもある。生成の働きの根本(先天の生成の働き)をいっているのである。

道竅談 李涵虚(150)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(150)第十七章  神、気、精を論ずる 西派では神、気、精についていろいろと煩雑なことが述べられているが、修行の根本となるのはただ「動かないでいる」ということに尽きる。覚醒した状態で「動かないでいる」ことは日常生活ではあり得ない。これを実践することで普通の生活では得ることのできない知見が得られることを経験的に知って静坐・坐忘・心斎という修行法が確立された。こうした「静」の状態で心身に生じるいろいろな変化を説明しようとして神や気、精などの概念を立てているのであるが、禅宗や儒教ではそうしたものを排してしまった。神仙道でそうした「文化的遺産」をなるべく取り入れようとしたのが西派である。西派で組み立てようとしているのは神仙道を修行する過程で派生したいろいろな「思考の断片」「感覚の影」である。そうしたものを細かに見ることは時に修行者をして「迷路」に導くことになるが、尽きない興味をおこさせてくれるものでもある。

道竅談 李涵虚(149)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(149)第十七章  神、気、精を論ずる 後には「陰欲」を肯定する派は「栽接派」、否定する派は「清浄派」などと称され、あたかも「栽接派」が房中術なる性技巧を使って神仙道の最終的な悟りを得ようとするものであるかの如くの誤解が生まれた。主に南方で展開したとされる栽接派は本来が健康法から発した神仙道の形を留めるもので、性的なものを否定しないというに過ぎない。それに対して北方で主に行われたとされる清浄派では仏教の影響を受けて平穏な瞑想をするには性的なものを避けた方が良いと教えている。ただこれは無為自然を規範とする神仙道からすれば歪(いびつ)な形ではある。性的なものは積極的に肯定されるべきでも否定されるべきでもない。他の事象と同じく過度にとらわれなければそれで良いのである。

道竅談 李涵虚(148)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(148)第十七章  神、気、精を論ずる この章では未だ先天の元神、元気、元精の働き閉じてしまっていない童子の頃に神仙道と出会ったならば特別な修行をしなくても仙人になることができるとしている。これが『西遊記』の三蔵法師である。三蔵は童子の頃に仏教に出会っているので「先天の気」がそのままに保たれている。そうであるから妖怪たちはその「肉=先天真陽の気」を美味として食べたがる。『西遊記』は仏教よりの神仙道の教えを説いているので孫悟空が最も活躍をする。空への悟りを得ることが重要と教えるわけである。また沙悟浄もいるが、この浄を悟るというのは神仙道の悟りということになる。ただ沙悟浄はあまり活躍をしない。猪八戒も仏教の戒律を象徴している。あるいは八戒を儒教のキャラクターとすれば儒、仏、道の合一の物語とすることができたであろう。中国では仏教と神仙道の融合が禅宗や神仙道の北派、清浄派で生じた。仏教を取り入れるか否かは「陰欲」を肯定するか否定するかにあった。また儒教と神仙道の融合は朱子学や陽明学に見ることができる。朱子学者や陽明学者はひたすら否定したがるが、これらは実質的には禅宗の影響が色濃く存している。禅宗は仏教と神仙道が融合して成立しているものであるから朱子学や陽明学では実質的には儒、仏、道の融合がなされたと見なすこともできる。

道竅談 李涵虚(147)第十七章 神、気、精を論ずる

  道竅談 李涵虚(147)第十七章  神、気、精を論ずる 〈要点〉 「神」とは思考のことであり、「気」は感情、「精」は肉体(物質)をいう。我々の思考も感情も肉体も不完全である。なかなか正しい思考をすることは難しいし、平穏なる感情を保つことも困難である。また肉体も注意を怠ると機能不全(病気)が発生してしまう。「そうであるのが人である」と考えればそれまでとなるが、より正しい思考、あるべき感情や肉体の状態を得ることができるのではないかという気持ちを持つところから修行は始まることになる。そこで神仙道では本来の思考である「元神」、本来の感情である「元気」そして本来の肉体である「元精」はあるべき状態に存していると考える。そうであるからそれを回復させれば良いのであり、それが神仙道の修行となる。これは太極拳などでも同様で、新しいものを得るのではなく、本来の状態に復するための修行と考える。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(15)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(15) 太極拳の「絶招」とは「分勁」にあった、それはあらゆる動きをひとつのものとして捉えることのできる視点である。「分勁」をベースにしたなら形意拳の動きも、八卦掌の動きもそれを太極拳の動きとして練ることが可能となる。これが「三拳合一」である。このように細分化することであらゆるものは等しくなるのである。「人」という視点に立てば、社会的な地位のある人も無い人も等しくなる。また分子などのレベルでは人も物も等しいものとなる。これが荘子の教える「万物斉同」である。あらゆるものは根本において等しい。攻撃も防御も同じである。突きも、投げも同じところから派生する。太極拳とは分勁を練るための方途であった。これを習得することで必要なあらゆる拳術を取り入れることが可能となる。歴代の楊家の拳士たちは「長拳」「快拳」という形でそれぞれ必要とされる動きを取り入れて来た。確固としたベースである太極拳があって新たなものを取り入れることで太極拳の生命力は保たれてきたのである。太極拳の「絶招」は可変的なものであり、ひとつの動きに固定されるようなものではない。その時々で最も適切な動きをとることができればそれがそのまま「絶招」となると太極拳は考えているのである。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(14)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(14) 太極拳においては分勁の速さが基本である。2点間を3ミリで動くのと同じ速さで3センチ(寸勁)、30センチ(尺勁)と動いて行くので「快拳」は速く見えるのであるが、本来的には速度に変化はないのである。そうであるから「快拳」はいわゆる「砲捶」とは違っている。一般的に「砲捶」は実戦用の套路であり、それを練り上げることが求めらえれる。陳氏太極拳などでも同様である。しかし楊家の太極拳では砲捶を持たない。最高級の動き(套路)は3ミリ「単位」の動き(分勁)であるのでそれを決まった形にすることはできないからである。先に螺旋と滾勁との違いのあることを述べたが、それは纏絲勁と滾勁の違いでもある。陳氏太極拳は本来は陳家の「砲捶」と称されていたが、陳品三が陳氏の螺旋の動き、つまり纏絲勁が「易」と同じであることから、陳家の套路もこれを六十四に分けて六十四卦で説明することが可能であるとし、陳家の「砲捶」が太極拳と称するにふさわしいものであることを「証明」したのであった。しかし、易の陰陽は螺旋の動きではない。あくまで陰と陽とが半分づつに分かれている。螺旋の動きとして陰陽を表現するのは太極拳の太極双魚図によるものである。これらは陰陽の動きが変転することを示している。つまり3ミリ単位で動くのであれば、前に出ている動きも、後ろへの動きにそのままで変わり得ることを教えているのであって、纏絲勁のように腕や体のねじりを使って力を発するというものではない。つまり陳品三が陳家の「砲捶」を太極拳とするのは楊家の双魚図に淵源する螺旋の図によっているのであるが、それは「易」とは直接に関係するものでは無く、六十四卦とも無縁なのである。陳家の「太極拳」は楊家と同じ太極拳の影響を受けて成立したものであるが、その原理は陳一族の伝える纏絲勁をもって統一されている。纏絲勁は「尺」の勁を練るもので、太極拳の抽絲勁の「分」を練るものとは異なっている。この「尺」と「分」の違いが速い動きを求める陳家とゆっくりとした動きを追究する太極拳の違いとなっている。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(13)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(13) 形意拳は尺勁の動きをベースとしている。一方、八卦掌は寸勁がベースとなる。そうであるから形意拳より八卦掌の方が投げなどの擒拿の動きに展開することが容易なのである。しかし、寸勁では打つという運動は見えにくい。これらをつなぐのが滾勁なのであり、滾勁の螺旋の動きはいうならば3センチの直線のつながりがたまたま螺旋の動きとなっているに過ぎないのであって、それはそのまま直線(3センチの連続としての直線)へと変ずることも可能である。さらに太極拳は分勁をベースとする。3ミリ「単位」で動くわけである。こうなると通常の運動のスピードでは練ることができないのでゆっくりと細心の注意を払って運動することになる。3ミリ「単位」の動きであれば形意拳も八卦掌も太極拳もそこに違いを見出すことはできない。つまり太極拳の「無招」とは「分勁」のことであり、それをベースとすることであらゆる動きがひとつになることを教えているのである。ただ分勁で重要なことは、その潜在する動きが寸勁で練られていなければならないという点である。また寸勁を使うににはそれが尺勁で練られていなければならないということがある。力のベースを練るのはあくまで尺勁でなければならない。そうした観点から太極拳では常に「快拳」が考案されて来た。「快拳」はかつては「長拳」などと称されることもあったが、「快拳」とは実はその速さをいうのではなく「尺勁」で動くことで自ずから「分勁」より動きが速くなることをいっているのである。そうであるから太極拳において「快拳」はそれほど重視されてはおらず、少林拳などで尺勁の動きの基本ができていれば必要ないとされる。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(12)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(12) そこで滾勁とは何か、ということになる。これは一般的には螺旋の動きといわれる。確かに表現としてはそうなるのであるが、厳密にいうなら滾勁と陳氏太極拳などの纏絲勁とは似て非なるものなのである。これを解するには「尺、寸、分」の勁を知らなければならない。「勁」とは武術的な力の使い方をいうもので、それが30センチくらいであれば「尺勁」で、3センチは「寸勁」、3ミリであれば「分勁」となる。通常の武術の動きは「尺」を以て行われる。この動きが最も大きな力を発することができるからである。これが3センチ「単位」での動き(寸)となると例えば腕の動きが突こうとしているのか、掴もうとしているのかわからなくなる。3センチ「単位」というのは3センチは動き始めた運動が継続されるが、4センチ目からは違う動きになる可能性があることを示している。これが寸勁である。劈拳を尺勁で打ったならば、掌で打つそれだけの動きとなる。しかし3センチ「単位」で変化の可能な寸勁で打ったならば、相手をとらえる場面であればそれを擒拿として途中から展開することも可能となるのである。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(11)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(11) それはともかく技術的には形意拳に八卦掌が取り入れられることで、八卦掌において投げ技への展開が図られることなったということであるが、これをボクシング系にレスリング系が加えられたという文脈で理解するのは正しくない。本来、形意拳において研究されていた「滾勁」を有効に練る方途として八卦掌が取り入れられたところが重要なのである。そして、この流れは更に滾勁をよく表現している太極拳へとつながることになる。八卦掌が投げ技として展開され得るということは滾勁の可能性を示したもので、それは形意拳の回身式でも擒拿への展開を可能としたのである。形意拳の擒拿は足を払ったり、逆を捕ったりするのではなく、頭を押さえるところに特徴がある。例えば劈拳の回身式では相手の頭部をかかえて、首の骨を折る方法も秘伝としてある。頭は重く、これを抑えられると体のバランスを失ってしまう。合気道の入身投げなども頭を押さえるものであったようで、植芝盛平の晩年の演武では相手の頭をかかえるようにして投げている場面も見ることができる。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(10)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(10) 形意拳の中でも滾勁を得意とした黄柏年がレスリング系への展開を示す「角觝」を提唱していたことは興味深いものがある。それは形意拳が滾勁を見出すことで初めて八卦掌の投げ技への展開が可能となったからである。余談ではあるが黄は『形意拳械教範』も著しており、ここでは形意拳を銃剣術として使うことが提唱されていた。つまり『龍形八卦掌』では八卦掌を「柔道」として、『形意拳械教範』では形意拳を「銃剣術」として軍事転用しようとする意図のあったことがうかがえるのである。「角觝」は古代中国にも見ることのできる語であり、柔道的なものが日本の柔道から来ているのではなく中国古代の武術によるものであることを示そうとしたもののようにも受け取れる。またキョ拳も、キョという語はほとんど使われることのない字であるが、これは古代の周の東の方の一地方(挑戦半島に近いキョ県)をいう名である。そのことからすればテコンドーに似たキョ拳は本来は古代周の孔子の故郷である曲阜にも近いキョ県から発して朝鮮半島にわたってはテコンドーになったとするイメージが内にあったのかとも思われる。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(9)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(9) 現代になって中国武術に影響を与えたのがテコンドーである。これはベトナム戦争で韓国兵がテコンドーを使って有効であることを知った民国軍部が積極的に取り入れたとされ、今日でも祝日などにはキョ拳隊(キョは草かんむりに呂)がレンガや板を割ったり、型の演武をしたりしている姿をテレビなどで見ることができる。伝えられるとことでは蔣介石はテコンドーを取り入れるのに際して軍隊からそれぞれ数人を選んでテコンドーと八極拳などの中国武術の班を作って数か月連取させた後に試合をさせたとこと、テコンドー班が圧勝したのでその採用が決まったとされている。これを中国武術家などは「数か月の練習では中国武術は身につかない」と評して、テコンドーとの試合が無意味であったとするが、蔣介石が求めたのは毎日、稽古をして何年もかかって高度なレベルを得る「武術」ではなかったのである。あくまで軍隊で訓練として使うためのものであるから新兵の訓練期間とされる三か月ほどである一定のレベルに達するものでなければならず、触れた瞬間に相手は彼方に飛ばされていた、とか、蹴った足が見えなかったなどの超絶レベルは本来求められていなかったのである。武術はあくまで道具であり方法、手段であるに過ぎない。求めるとことろを見失うと武術の持っている価値や意味を正しく体得することができなくなる。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(8)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(8) 八卦掌が投げ技として理解されるようになる背景も、本来はボクシング系の武術である八卦拳(八卦掌)が形意拳と共に修練されることでボクシング系の形意拳とレスリング系の八卦掌という図式が出来たものと思われる。なぜ八卦掌の技法が投げ技として理解されるようになるのか。この傾向の早い段階として黄柏年の『龍形八卦掌』がある。そこには「角觝」として組手が紹介されている。「かくてい」とは「相撲」の意でもある。黄柏年は李存義の弟子であり、八卦掌は李存義の頃から形意拳に取り入れられた。やはり八卦掌が投げ技への展開をしていたのは形意拳においてであるようなのである。あるいはこれは日本の柔道が関係しているのではないかと思われる部分がある。中国では近代になって「国術」として中国武術を普及させようとする動きが出てくる。そして中央国術館を核に全省に国術館を作ろうとする計画があったが戦争の激化にともない頓挫してしまった。こうした運動を促したのが日本兵の活躍であった。日本兵は小柄であるのに戦争に強いことが注目され、それが日本で柔道を教えていることと関係しているのではないかと思われるようになったのである。そこで「国術」は「強種強国(強い人種、強い国家)」をはたすための優れた方途と考えられるようになったのである。「なんとか柔道的なものを取り入れたい」という意図があって八卦掌に投げ技への展開が模索されたのではなかろうか。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(7)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(7) もうひとつ武術でいわれる統合には「突き蹴り」と「投げ逆」がある。これはよくボクシング系、レスリング系などと称されて地域による違いがあるとされる。例えば中国は拳法が中心のボクシング系の文化圏にあるが、その周辺のモンゴルや日本などは「相撲」が広く行われているレスリング系の文化圏に属している。しかし、近現代になって情報の交流が広く行われるようになると、ボクシング系の文化圏にある武術家はレスリング系の技法を求めるようになり、レスリング系の文化圏にある武術家はボクシング系の技を研究するようになった。日本でも近現代には柔道だけでは物足りなく、空手への興味が深まった。結果として和道流など柔術を含む技法体系も案出されることとなる。そうした傾向は日本少林寺拳法において「剛柔一如」がいわれるようになり理論的な統合が試みられた。日本少林寺拳法では突き蹴りを「剛法」とし、投げ逆を「柔法」としてそれらを組み合わせた技法体系を構築したのである。従来からこうした「不足」を補う必要性は感じられていたようで突きや蹴りを主体とする中国武術では、投げや逆は擒拿と称して心得ていどに教えられた。一方、投げや逆を中心とする日本の柔術では当身が補助的な技法として加えられたのであった。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(6)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(6) およそ「無刀」とは「刀」にこだわらない、という意味である。そうしたところで禅との接点が出てくる。刀にとらわれない心を養うものとして禅との共通点が見いだされるのである。つまり「無刀の位」とは刀を持っていてもそれにとらわれることなく、持っていなくてもそれにとらわれることのない境地なのである。そうしたとらわれのない心の境地はあるいは禅をして得ることはできるかもしれないが、およそ剣禅一如をいうのであれば、それはイメージ的なものではなく、武術的な技法として展開されるものでなければないであろう。ただ「気にしない」だけでは、技を攻防において有効に使うことはできない。思想的には剣禅一如にひとつの新たな道があるように考えられるが、実際に技術的な方法が見いだされなければ、剣術と禅とは断絶したままであるので、その有効性が武術として展開する上で認められることがないのである。剣(拳)と禅との一致はむしろ中国武術でよく研究されていた。初めは馬歩の姿勢で「禅」が練られようとしたが、本来が足腰の鍛錬のための方法であったために数分しかその姿勢を保つことができない。これでは充分に「禅」の境地を練ることができない。そこで形意拳では三才式が考えられた。三才式は半身の構えであるから馬歩よりも足への負担は大きくなる。しかし、左右を入れ替えるだけで「静」の意識状態は継続されるので、ある一定の時間「禅」を修することが可能となった。そして形意拳ではすべての技をこの基本の構えの変化として行う。半身の姿勢があまり変化することが無いために攻防にあっても、「静」の意識状態(禅)が失われ難いのである。ここにおいて拳禅一如は技術的な一応の完成を見ることになった。形意拳の動きがすべて半身の構えの変化で構成されているのも拳禅の一如を実現するため大いなる発見であった。それは「全ての動きを等しいものとする」ということであった。禅と拳の動きが等しいものであればそこに断絶は生まれない。しかし、形意拳においても動いている時には、動きは「静」の時と似ているとはいっても完全には「静」を保つことができない。どうしても「禅」と「拳」とが完全なる「一如」を得ることは難しいのであった。これらを解決したのが太極拳のゆっくり動くという方法であったが、それについては後に触れることとする。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(5)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(5) よく坐禅などの精神敵な修行と武術の鍛錬を並行することで「剣(拳)禅一如」の境地が得られるとされることがある。しかし「剣(拳)禅一如」とはいっても実際の練習となると通常の武術と何ら変わりのないものが練習される。禅はあくまで禅であり、武術はあくまで武術であって、それらを「一如」としてつなぐのは、なんとなくのイメージによって夢想される過ぎないのである。あるいは闘争心を以て相手を見るのではなく、慈眼をして相手に対するなどと言われるが、あくまでその程度に留まるものでしかない。「剣禅一如」が言われ出したのは江戸時代になってからのようで沢庵と柳生宗矩との間でそうしたことが考えれれるようになった。これは新陰流の「無刀の位」との関係がある。新陰流では上泉秀綱が「無刀の位」を考えたというが、その具体的な技法としての完成は弟子の柳生石舟斎に託された。新陰流では剣術における殺人剣(殺人刀)と活人剣(活人刀)の違いを述べた後に「無刀の位」のあることを教えている。また殺人剣は兵法で、活人剣は平法であるとの考え方もある。おそらく「無刀の位」は殺人剣、活人剣これらを含むと同時に、それらを越えたものとして上泉は考えていたのではなかろうか。しかし結局は新陰流において明確な技術としての「無刀」を打ち出すことはできなかった。わずかに「無刀」を徒手として柔術的な刀を捕る技法のように示されることがあるのみである。しかし、これでは殺人剣への展開はできない。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(4)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(4) さて太極拳の「絶招」であるが、鄭曼青は「太極拳は無招が万招に勝つものである」と教えていた。つまり「絶招」がないのが太極拳であるというわけであるが、ここでの「無招」とはどのような意味を持つのであろうか。単純に考えると「無になることであらゆる技を制することができる」といった精神論に行き着くことになるが、実際はそうではない。いうならば「無招」は「万招」を含むのであり、それを越えるたとえば「億招」として展開し得るるものとされているのである。分かりやすくいうなら「無招」と「万招」では「招」のレベルが同じではない。「無招」は先天であり、「万招」は後天に属している。これは太極拳でいうなら「無招」は無極で、「万招は太極ということになる。王宗岳は「動であれば陰と陽に分かれて太極となり、静であれば無極となる」としている。この「無極」としての「静」は動を含む「至静」であることはいうまでもあるまい。陰陽の動きとは「防御」と「攻撃」であり、また「突き蹴り」と「投げ逆」あるいは「精神」と「肉体」などと解することもできよう。これらがひとつのところ(無極)から生み出されるのが太極拳お「絶招」なのである。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(3)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(3) 呉家は中段の構えを重視している。これと等しく武家でも一旦、中段の構えをとってから動きに入ることが多い。呉家も武家も楊家の用法架をベースとしているので、中段の構えを強調するのは楊露禅の頃の用法架にそれがあったためと思われる。またロウ膝ヨウ歩が倒輦猴でも用いられるのも露禅用法架の特徴である。呉家が中段の構えを基本とするところから同じく中段の構えを基本とする形意拳や八卦掌との共通性が認められて双辺太極拳では呉家がベースとされ形意拳、八卦掌との融合が図られたのであった。つまり双辺太極拳では中段の構えをキーワードに太極拳の用法架としての形意拳、八卦掌への展開が可能となると考えるわけである。あえていうなら形意拳は四正推手へ、八卦掌は四隅推手への展開と位置付けることができる。八卦掌・単換掌と四隅推手の関連については、すでに前回において合気道の正面打ち一か条と等しいことを指摘しておいた。こうして見ると太極拳は形意拳(四正推手)と八卦掌(四隅推手)へと敷衍することが可能であり、またそれらを収斂したものとすることができるわけである。ちなみに四正は「直」の入身であり、四隅は「斜」の入身を練るものである。

第九十八話 絶招研究 太極拳篇(2)

  第九十八話 絶招研究 太極拳篇(2) 太極拳では特に「絶招」が語られることはないが、進歩搬ラン捶がそれであるとする人は少なくない。これも歩法を伴う中段への突きであるので、結局は半歩崩拳や単換掌と大枠では同じということになろう。伝わるところでは楊露禅が少林僧との試合でこれを使い、相手を絶命させたことが原因で故郷に居ることができなくなり、結果として武禹譲を介して北京へおもむくこととなった。もし、これがなければ太極拳は中国の一地方で埋もれてしまっていたかもしれない。かつての中国社会では武術で相手を倒すと相手方からは門派の名誉をかけて狙われる可能性があった。露禅は晩年に至るまで故郷に帰ることがなかったようなのでこうした話もある程度は信ぴょう性があるのかもしれない。有名な呉家太極拳の呉公儀は、太極拳の実用性が話題となった頃、香港の現地の武術家との試合を行った。そこでは冒頭で呉の進歩搬ラン捶が相手の鼻にヒットして、それが原因で試合は呉の優勢のまま途中で止められた(相手の鼻の流血が止まらないのとが原因とされた)。これも双方の門派の名誉を考えてのことで決定的な勝ち負けが出ない内に止めさせたのである。進歩搬ラン捶では「搬」や「ラン」を用いて相手の攻撃をさえぎることを前提としている。「搬」と「ラン」は「遠い間合い」と「近い間合い」を意味し、また「外から内への捌き」と「内から外への捌き」を意味する。こうして相手の攻撃を防いで、こちらは正面から突きを入れる。この技を使うと相手は前に崩れるのでその勢いと、こちらの突きの勢いが相乗されて大きな威力を発揮することになる。ただ、これを使うには「粘」勁が使えなければならない。

九十八話 絶招研究 太極拳篇(1)

  九十八話 絶招研究 太極拳篇(1) これまで絶招研究では形意拳の半歩崩拳、八卦掌の単換掌を取り上げて来たが、要するに「絶招」といっても基本は空手の競技組手などでもいちばん多用される「中段突き」になってしまうのである。つまり最も有効な方法はある意味で最も平凡、一般的な方法でもあるわけである。そうした大原則を離れて奇異な技を行ってもなかなか成功させることは難しい。最も有効な、最も一般的な動き、つまり合理的な動きから「絶招」も逸脱することはできないのである。しかし、そこに工夫が加わることで、これが「絶招」となり得る。形意拳の半歩意拳であれば「半歩」の歩法を工夫することで、「半歩」という特殊な間合いを制御することが可能となれば相手の意表をつくことができる。また八卦掌では斜めの入身の工夫が単換掌にあった。ただ、こうした「細部」の工夫は基本的な練習を重ねてスピードやパワーをつければ、こららの「絶招」を使わなくても相手を打ち負かすことも不可能ではない。こうしたところに伝統的な武術の意義が競技試合の視点からは問われることになる。「秘伝を知らなくて試合に勝てる」というわけである。しかし、細部を極めることは永遠に技のレベルの向上を得ることにつながっている。若いベストな状態の時にのみ行うことのできる動きに近いレベルを何時でも行うことができるようになるわけである。競技からは引退があるが、実戦には引退はない。「絶招」が提起しているのは武術というものが教える生き方であると言っても良いであろう。これは後に詳細に述べるが絶招なき太極拳では、すべての技が等しく「絶招」であり、それは全てが等しいと教える荘子の「万物斉同(ばんぶつせいどう)」と同じ考え方でもあるのである。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(21)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(21) 大東流には多人数捕りという特徴ある技法が存している。多くの柔術では二人、三人くらいの相手に動きを制せられた時に対する技はあるが、五人や六人といった相手に抑えれれた時に対する技を見ることはない。盛平も大本教の時代や戦前あたりには多人数捕りをやっていたようであるが晩年は次第に多くの相手を次々に制して行く多人数掛けが主になって行ったようである。弟子の塩田剛三なども多人数掛けはかなりの人数で行うが、多人数捕りは三人までである。こうしたことも晩年の盛平が多人数捕りをあまりやらなくなった証左となるのかもしれない。それは正面打ち一か条で感じたのと同様に「受け」から始まることに違和感を持ったためではないであろうか。完全に相手に抑えらえるまで待って技を行うという間合いは練習されるべきものではないと感じていたのではなかろうか。単換掌の修練は先に攻撃をして間合いを作る「筋」の鍛錬から見かけは相手の攻撃を受ける「髄」の鍛錬へと深められなければならない。そして真に単換掌が絶招として働くのは「髄」のレベルにおいてなのである。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(20)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(20) 実際のところ正面打ち一か条において膝の上に手を置いた状態で、頭部を打ってくる相手の手刀を受けようとしても間に合わない。受けては手刀が動き出した時点で既に上段に近いところに手を置いていなければならない。こうしたことからすれば、正面打ち一か条の間合いは相手が打ってくるのを受ける形にはなっているが、それより前にこちらは「打たん」とする気勢に反応していなければならないことをこれは示しているのではなかろうか。単換掌でいうなら「髄」(意識)のレベルとなる凌空勁の間合いを正面打ちは形として示しているように思われる。思うに盛平が気に入らないという感じを受けたのは多くの弟子たちが、単なる「受け」から合気道の技を始めているところにあったのではないであろうか。ただ相手の攻撃を待つのではなく相手の意識を導いて特定の動きを導く、そうしたものとして合気道は稽古されなければならないと盛平は考えていたのではないであろうか。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(19)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(19) 植芝盛平は座っての正面打ち一か条を最も重要な合気道の技法と考えていた。晩年は岩間に隠棲していたが、東京道場に盛平が現れると弟子たちは一様に正面打ち一か条の練習に移ったという。これをしてないと盛平の機嫌を損なうためである。一般的に正面打ち一か条は相手が右手で打って来た時には、こちらは左の手刀でそれを受け、相手の右わき腹へ当身を入れる。そうして態勢を崩したところで腕を固めるとされている。これを単換掌から見れば初めに相手が打って来るのではなく、こちらが打つこととなる。興味深いことにそれでもこの一か条は技として成り立つのである。ちなみに合気道の技は立ち技、座り技など適当に練習がされているが、その多くは座り技でないと成立しない。この一か条も立ち技では腕を抑えきることはできない。入身投げも後ろに逃げられてしまう。合気道における立ち技と座り技の区別は重要な問題であるのでまた稿を改めて論じてみることとする。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(18)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(18) 最後の八仙過海は扣掌式を動きとして表現したものである。扣掌式は既に説明したように纏綿掌を最も端的に示すものである。八卦拳では単換掌式に単換掌と上式単換掌、下式単換掌がり、それに扣掌がある。つまり単換掌には四種類の側面(変化)が内包されているのである。これを龍形八卦でいえば上段よりも更に上へと変化をする上式は黄龍反身(回身掌式)への変化となり、下になる下式は上下換掌(双換掌式)となる。そして扣掌は両手の間を狭く構えるもので換掌の時には指先で突くような形になる。これは指功の鍛錬でもある。八仙過海で初めに左右の手で突くような形で直線上を歩く動作があるのはこうした扣掌式の動きが反映されているわけである。「扣」には相手を引っ掛けるという意味がある。八仙過海で円周上において両腕を合わせて丸く動かす動作を練るのは絡みつく勁の動きを養うためである。これが「纏綿」であるが、この大きな動きを小さな動きにしたのが扣掌式なのである。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(17)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(17) 白猿献桃と獅子繍球は一つの走圏で、これら二つの動きを含めている。それはここで二つを入れなければ八掌式の全てを入れることができないからに他ならない。つまり双換掌式を双換掌と上下換掌の二つにしてしまったので八本の動きで八掌式のすべてを示すにはここで二つの掌式の動きを入れる必要があったのである。白猿献桃は抱掌式の動きであるが、これは相撲の「突っ張り」と同じである。相撲の場合は片手であるが、抱掌式では両手で行う。抱掌式は強い攻撃力を持つ動きで腕打などとして馬貴の得意技として恐れられた。中国語で「腕」は手首の意味もあるのでこれを手首による打撃とする向きもあるが、馬貴が「ホウ蟹(ホウは虫に旁。ホウカイで「蟹」の意)馬」つまり「カニの馬」と称されていた。これは頭上に高く両掌をあげる八卦拳の白猿献果をイメージさせるものであり、龍形の白猿献桃の形もこの極意の形を残している。つまり馬貴の得意技は白猿献果(桃)、抱掌式によるものであったのである。そして合掌式である獅子繍球は獅子が両手で球を持って遊ぶ形である。これは両手を上下に入れ替えて纏綿勁を練るもので、こうした動きは全身を使った途切れのない勁の変化を会得するためのもので八卦拳では「太極を推す(推太極)」などと称されている。変転する両手の動き(推太極)は八仙過海で端的に示されているが、それを成り立たせるために重要な肩を開く鍛錬(通臂功)を練るのが合掌式なのである。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(16)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(16) 蛇形掌式は白蛇吐信にある絡みつくような腕の動きにその特徴を認められる。これは形意拳の十二形拳の蛇形拳とほぼ同様の動きになっている。ただ八卦掌では転身の歩法が加わる。十二形は「暗」で練らなければならない。しかし形意拳では往々にして十二形も「明」で練ってその威力を示そうとする人が居る。それでは形意拳の本来の味わいが出て来ない。十二形の「暗」の身法を練るにも龍形八卦は適している。大鵬展翅(順勢掌式)は転身する勢いを使って蹴りや突きを行う。大鵬展翅では両腕を大きく」広げて円周上を歩く。これはあたかも大鵬が大きく翅(つばさ)を広げて滑空しているように見えるが、こうして円周上を歩いている内に両腕で作った円の流れに歩法の勢いを乗せて行く。そうして転身の時に一気に縦の円へと変換をして擺却から劈掌へと展開をする。このように順勢掌式(大鵬展翅)では足や腕で特にアクションを起こすのではなく転身の動きをそのまま、つまり「勢」いに「順」じてその力を足や手に及ぼすのである。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(15)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(15) 纏綿掌から八掌式を見ると単換掌、双換掌はその基本的な入身の動きということになる。纏綿掌という語でイメージされる絡みつくような働きは主として蛇形掌式など六掌式によって練られる。こうした部分を原理である八掌式とそれを動きとして表現している龍形八卦掌の套路を合わせて以下に見てみることとする。回身掌式は腕を動かすことなく転身を行うもので後ろに反るような身法に特徴がある。これは黄龍反身として形にまとまられている。八卦掌では腕と肩、足と腰などの動きを一致させないような訓練をあえてする。そうすることで例えば手で相手に触れていても、足の変化を悟らせないようにするわけである。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(14)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(14) 八卦拳の秘伝ともいうべき「掌式」に関しては単換掌式のほかに双換掌式について触れたが、ほかには蛇形掌式がある。これは龍形八卦では白蛇吐信として套路に編まれている。また回身掌式は黄龍反身であり、順勢掌式は大鵬展翅となっている。また抱掌式は白猿献桃、合掌式は獅子繍球、扣掌式が八仙過海となっている。八卦拳の奥義は纏綿掌である。これは螺旋の動きである「纏」と、粘りつくような動きである「綿」に特徴を持っている。陳家太極拳の螺旋の動きは「纏」絲勁と称され、太極拳は「綿」拳といわれることがある。これらの特徴を合わせ持つのが八卦掌(八卦拳)なのである。纏綿掌は八掌式の全てにそれを含んでいるのであり、八掌式は纏綿掌を練るためのものとすることができる。この纏綿掌を最も端的に示しているのが扣掌式(八仙過海)である。

第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(13)

  第九十七話 絶招研究・八卦掌篇(13) 単換掌、双換掌がほとんどの八卦掌にあることは既に述べたが、龍形八卦掌ではこれに上下換掌が加わる。この上下換掌は程派などでは指天打地などと称されていて転身をして体を沈める動きとなる。龍形の双換掌は「前後」から再び「前後」の変化を重ねている。一方の上下換掌は「前後」から「上下」の変化となる。これは構造的には共に横円と縦円(双換掌)の変化で組み立てられている。つまり、これらは一見して異なる動きのように見えるが、その構造、構成は同じであり、そうであるから共に双換掌式に属するものとして「換掌」と称されているのである。一般には指天打地とされる套路を龍形八卦であえて「換掌」としているのは、単換掌式、双換掌式の考え方が正しく反映されていることを伺わせる。ちなみに単換掌は龍形では横円の動きとなっている。一方、孫禄堂の系統の八卦掌は龍形と極めてよく似ているが縦円の動きである。本来、八卦拳では縦円のみを原則として使う。それを孫派の八卦掌でも受け継いでいるわけである。龍形で横円が入るのは太極拳の影響で楊家太極拳ではほとんどが横円の動きである。こうした龍形八卦の横円の動きは太極拳によるおのと思われる。また呉家では太極拳の中でも縦円を多用する。こうしたことからして龍形の横円は、縦円に特徴を持つ呉家からの影響によると考えた方が分かりやすいように思われる。