第九十八話 絶招研究 太極拳篇(6)

 第九十八話 絶招研究 太極拳篇(6)

およそ「無刀」とは「刀」にこだわらない、という意味である。そうしたところで禅との接点が出てくる。刀にとらわれない心を養うものとして禅との共通点が見いだされるのである。つまり「無刀の位」とは刀を持っていてもそれにとらわれることなく、持っていなくてもそれにとらわれることのない境地なのである。そうしたとらわれのない心の境地はあるいは禅をして得ることはできるかもしれないが、およそ剣禅一如をいうのであれば、それはイメージ的なものではなく、武術的な技法として展開されるものでなければないであろう。ただ「気にしない」だけでは、技を攻防において有効に使うことはできない。思想的には剣禅一如にひとつの新たな道があるように考えられるが、実際に技術的な方法が見いだされなければ、剣術と禅とは断絶したままであるので、その有効性が武術として展開する上で認められることがないのである。剣(拳)と禅との一致はむしろ中国武術でよく研究されていた。初めは馬歩の姿勢で「禅」が練られようとしたが、本来が足腰の鍛錬のための方法であったために数分しかその姿勢を保つことができない。これでは充分に「禅」の境地を練ることができない。そこで形意拳では三才式が考えられた。三才式は半身の構えであるから馬歩よりも足への負担は大きくなる。しかし、左右を入れ替えるだけで「静」の意識状態は継続されるので、ある一定の時間「禅」を修することが可能となった。そして形意拳ではすべての技をこの基本の構えの変化として行う。半身の姿勢があまり変化することが無いために攻防にあっても、「静」の意識状態(禅)が失われ難いのである。ここにおいて拳禅一如は技術的な一応の完成を見ることになった。形意拳の動きがすべて半身の構えの変化で構成されているのも拳禅の一如を実現するため大いなる発見であった。それは「全ての動きを等しいものとする」ということであった。禅と拳の動きが等しいものであればそこに断絶は生まれない。しかし、形意拳においても動いている時には、動きは「静」の時と似ているとはいっても完全には「静」を保つことができない。どうしても「禅」と「拳」とが完全なる「一如」を得ることは難しいのであった。これらを解決したのが太極拳のゆっくり動くという方法であったが、それについては後に触れることとする。

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