第九十八話 絶招研究 太極拳篇(5)

 第九十八話 絶招研究 太極拳篇(5)

よく坐禅などの精神敵な修行と武術の鍛錬を並行することで「剣(拳)禅一如」の境地が得られるとされることがある。しかし「剣(拳)禅一如」とはいっても実際の練習となると通常の武術と何ら変わりのないものが練習される。禅はあくまで禅であり、武術はあくまで武術であって、それらを「一如」としてつなぐのは、なんとなくのイメージによって夢想される過ぎないのである。あるいは闘争心を以て相手を見るのではなく、慈眼をして相手に対するなどと言われるが、あくまでその程度に留まるものでしかない。「剣禅一如」が言われ出したのは江戸時代になってからのようで沢庵と柳生宗矩との間でそうしたことが考えれれるようになった。これは新陰流の「無刀の位」との関係がある。新陰流では上泉秀綱が「無刀の位」を考えたというが、その具体的な技法としての完成は弟子の柳生石舟斎に託された。新陰流では剣術における殺人剣(殺人刀)と活人剣(活人刀)の違いを述べた後に「無刀の位」のあることを教えている。また殺人剣は兵法で、活人剣は平法であるとの考え方もある。おそらく「無刀の位」は殺人剣、活人剣これらを含むと同時に、それらを越えたものとして上泉は考えていたのではなかろうか。しかし結局は新陰流において明確な技術としての「無刀」を打ち出すことはできなかった。わずかに「無刀」を徒手として柔術的な刀を捕る技法のように示されることがあるのみである。しかし、これでは殺人剣への展開はできない。

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