道竅談 李涵虚(152)第十七章 神、気、精を論ずる

 道竅談 李涵虚(152)第十七章 神、気、精を論ずる

或いは「天元はそれほど重要なことなのでしょうか。どうか天元について説明をしてください」と問われれば、わたしは次のように答えるであろう。

「天元とは、天地が陰陽五行をして、それを化して人や物を生じさせるところのものである。気をもって形をなすのであり、理がまたこれに付与される。人の気は元気から生まれる。父母がいまだ交わりを持たない前にこの気は現れることも活動することも無くただ存している。父母が交わりを持った時にこの気はそこに下って活動を始める。儒家のいう『天が諸人を生む(天、蒸民を生む)』『物質のあるところ法則がある(物あれば則あり)』がこれである。この気はひじょうに不可思議なもので、不可思議であるから神を有しているといえる。この神は元神である。またこの気はひじょうに清らかである。清らかであるのは至精であるからに他ならない。この精は元精で、子供を身ごもる前、そこには元気が存しており、ここでは後天の呼吸の気はいまだ活動をしていない。こうして十か月で子供の形が完全となる。口や鼻の形もかすかに伺うことができるようになる。この時、子供は母親の呼吸を通じて、外にある天地の太和を取り入れている。それと同時に血は陰神を巡らせることになる。こうして呼吸ができるようになって行くのであり、後天の神と気の二つが完全なものとなって行き、この世に生まれ出ることになる。都合の良いことに生まれたばかりの時は、口はものを言って考えを述べることはできないし、目は笑って感情を表現sることもできない。知識を得ることもないし、分別をすることもなく、元気と一体化している。思うことも考えることもないので陰神も働くことがない。元気と元神は互いに助けあって養いあっている。そして十六歳になると神が完全となり気も充分となる。こうなると陽が極まって陰が生ずる。そしてそれが変じて後天交感の精が生じることになる。そして欲火が盛んとなり、陰神が思いのままに働くようになる。そうであるから徳のある子供が師に逢うことができれば、天元の体を清静のままで修行に入ることができ、そのまま特別な修行をしてなるのではない『無為の天仙』となることができる。もし後天の働きが出てしまうと先天は後退することになる。そうであるから『天元は修行しやすい』と言われているのである。どうして性的な欲望を持っていない子供が山に入って修行する必要があるであろうか。つまり子供はそのままで天仙なのである」と。

〈補注〉「天元」とは「先天」ということである。「人元」は「後天」である。そして「天元」に属しているのが「元精、元気、元神」である。これらから後天の「精、気、神」が生まれることになる。後天の「精、気、神」が育つと「欲火」が盛んとなるとしている。これが十六歳で、それ以前に神仙道に触れることができれば、生まれ持った先天の元精、元気、元神を失わないようにすれば良いだけと教える。一方で性的な欲望が生じて、そのまま「欲火」の燃えあがるままにしておけば自らの「精、気、神」が傷つけられ病や死へと至ることになるのである。

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