第九十八話 絶招研究 太極拳篇(15)
第九十八話 絶招研究 太極拳篇(15)
太極拳の「絶招」とは「分勁」にあった、それはあらゆる動きをひとつのものとして捉えることのできる視点である。「分勁」をベースにしたなら形意拳の動きも、八卦掌の動きもそれを太極拳の動きとして練ることが可能となる。これが「三拳合一」である。このように細分化することであらゆるものは等しくなるのである。「人」という視点に立てば、社会的な地位のある人も無い人も等しくなる。また分子などのレベルでは人も物も等しいものとなる。これが荘子の教える「万物斉同」である。あらゆるものは根本において等しい。攻撃も防御も同じである。突きも、投げも同じところから派生する。太極拳とは分勁を練るための方途であった。これを習得することで必要なあらゆる拳術を取り入れることが可能となる。歴代の楊家の拳士たちは「長拳」「快拳」という形でそれぞれ必要とされる動きを取り入れて来た。確固としたベースである太極拳があって新たなものを取り入れることで太極拳の生命力は保たれてきたのである。太極拳の「絶招」は可変的なものであり、ひとつの動きに固定されるようなものではない。その時々で最も適切な動きをとることができればそれがそのまま「絶招」となると太極拳は考えているのである。