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道竅談 李涵虚(140)第十六章 先天とは何か

  道竅談 李涵虚(140)第十六章 先天とは何か この「気」は「霊」なるものである。「霊」なるものであるから「神」でもある。この「気」は「妙」なるものである。「妙」なるものであるから「精」でもある。上って巡り、下って交わるのが「気」である。そうであるから天地の「精」と「神」は、すべて「気」の中にあるのである。人はこの「気」を得て生を得る。この「気」は天地の「気」である。この「気」には清があり、濁がある。剛があり、柔がある。その剛を得たならば男となり、その柔を得たら女となる。その清を得たならば知者となり、その濁を得たならば愚者となる。 〈補注〉ここでも「気」を中心とする生成の働きが述べられている。「気」は先天の「一旡」に通じるものであるからこれは「神」でも「精」でもあることになる。濁気を得て生まれた子供が愚者となるという見方はおもしろい。確かに人としてのあるべきを理解していない人の気は濁りがあるように感じられはする。

道竅談 李涵虚(139)第十六章 先天とは何か

  道竅談 李涵虚(139)第十六章 先天とは何か あるいは「何が人を生み、物を生むのか」という疑問に、私は「それは先天から生まれる。先天は天地の主であって、一であり三であるもの。三であって一であるものである」と答えるであろう。この「一」は「一旡」であり、「三」は「精、気、神」である。いろいろなものが生じても、それらはすべて「三」「一」を離れることはない。「三」の中の「精」をいうのであれば、これは「二五(陰陽)の精」である。「三」の中の「気」をいうのであれば、これは「陰陽の気」である。「三」の中の「神」をいうのであれば、これは「虚空の神」である。「虚空の神」は、つまりは「陰陽の気」と交流をしている。「二五の精」は、「陰陽の気」と共にあって生成をしている。 〈補注〉「一」は「二」を生み、「二」は「三」を生んで「三」は万物を生むとするのは老子の教えである。ここではその中の「一」と「三」とを「一旡」と「精、気、神」としている。

道竅談 李涵虚(138)第十六章 先天とは何か

  道竅談 李涵虚(138)第十六章 先天とは何か 歴代の聖人が著した丹経には「天が生まれ、地が生まれる先の天、人が生まれ、物が生まれる先の天」とある。これは仙道の神々が生まれ、仏が生まれる先の天をいっている。または「天が生まれ、地が生まれたのはどこからなのか」と問うている。私は「これは先天からであり、太極から生まれた」と答えよう。いうならば物質が混沌とした状態にある、こうした先天の地から生まれたということである。(老子の言い方によれば)ただそれがどのように呼ばれるのかは分からない。強いてそれを道と称するのである、ということになる。道は、あらゆるものの「祖」であり、先天後天の「宗」であり、無体、無形で、無声、無臭でもある。その始まりはただ暗く、五行の別もない。そうした中にかすかな兆し、一旡が自然に生じ、清濁が明らかとなって、玄黄(天地)が生じた。つまり乾坤があるべき位置に安定して天地となったのである。 〈補注〉先天は「太極」とも「道」とも称することができる。しかしそれらはすべて後天の世界にあって、先天を見ての仮の名であるにすぎない。「虚」の世界である先天を限定的に表現することはできないのである。

道竅談 李涵虚(137)第十六章 先天とは何か

  道竅談 李涵虚(137)第十六章 先天とは何か 天より先に存在していたとは、天がそこから生まれたということである。人が生まれ、物が生まれたのは先天からなのである。この気には天地の気が密接に交わっている様子を見ることができる。それはいまだ形を持つことのない太虚であり、人も物もいまだ生まれてはいない先にこの気があり、これは天に先んじて存在していた。そのために先天と称するのである。これが二つ目の側面である。 仙道の神々や仏の生まれる前が先天である。既に述べた二つの側面とこの側面が先天にはある。この気は虚無の中からきており「太乙」と称せられる。金丹(自由であることを悟ること)は先天によることで得られる。そうであるから「祖」というのであり「始」というのであり、含真(真を含む)といわれるのである。天に先んじて出現していることから、天より先に存在しているとされる。これら三つの側面がある。そうであるからこれを先天と称するわけで、これらが先天が持っている三つの側面となる。 〈補注〉第二の側面はすべてのものが先天から生まれたということである。生成の働きそのものは後天においてなされるのであるが、その根源のすべては先天にあるとしている。そして第三は神仏の生まれる前が先天であると示される。これからは宗教的なもののとらわれから脱するための構造を構築するために先天のあることを知ることができる。また真の自由は後天においてしか得られないとも教える。ただ後天での自由は物質的な制限があるので限定的なものに留まるが、浄土教のように極楽世界を瞑想で夢想するだけでは真の自由は得られないのである。

道竅談 李涵虚(136)第十六章 先天とは何か

  道竅談 李涵虚(136)第十六章 先天とは何か 〈本文〉 先天は後天を超越した存在である。先天は初めであり、始まりでもある。本であり、元でもある。また一気を尊んでの言い方でもある。そして先天の気には三つの側面があり、また先天の名称には二つの意味があるとされている。二つの意味とは何か。天より先に出現していることが一つである。そして天より先に存在しているというのが二つ目である。天より先に出現しているとは、天より更に先にあったということである。天が生じ、地が生じる前が先天ということになる。この気は鴻濛(天地の元気)の全体を包んでおり、その初めは「太無」と称せられる。天地がいまだ分かれていない時より先にその気はあったのである。この気が天より先に出てきたのである。そうであるから「先天」と称せられる。これが一つの側面である。 〈補注〉ここでは先天に、後天よりも「先に生じていた」「先に存在していた」の二つの意味のあることが示されている。そして三つの側面の一つの「太無」と称されることが明かされる。「太無」は「虚」と同じである。

道竅談 李涵虚(135)第十六章 先天とは何か

  道竅談 李涵虚(135)第十六章 先天とは何か 西派では神、気、精の中で気を最も重要なものとする。それは気、つまり感情が行動の根源となっているからである。多くの人は理性(神)によって自分は動いていると考えているかもしれないが、大体において理性をベースとする行動はそれほどの力強さを有していはいない。また理性では好ましくないと思っていても行動してしまうのが人間である。このために神は気によって動かされると考えるので、気の働きが重んじられているのである。多くの社会的な情熱をもって行われた行動(戦争などが典型)は、後に考えればなんと愚かな行動をしたのかと思われるが、その渦中にあった人はそれが「正しい道」と思っていたわけである。こうした時代性を超える思考を得ることを神仙道は目指している。そのために先天の世界を構築して後天のこの世界を絶対的なものとしないようにしているのである。

道竅談 李涵虚(134)第十六章 先天とは何か

  道竅談 李涵虚(134)第十六章 先天とは何か ひとえに我々の生きる世界である後天に「真」の世界である先天のあることを思考の枠組みとして設定しなければならなかったのは、後天の世界が不変のものではないことを示すために他ならない。神として示されてるのは「理性、思考」の世界である。気とは「感性、情感」の世界である。精とは「物質」の世界である。我々の世界はこれらによって構成されている。こうした後天の世界にとらわれているが我々であるが、それを脱することを目途とするのが神仙道なのである。もっとも簡単に「規制の世界」から脱することのできるのが神のレベルである。考えることは自由にできる。そうであるから神仙道では第一に煉己を置いて思考のとらわれから脱することのできることを教えている。しかし、神のレベルは「常識」という壁に阻まれて、その自由を自分で圧殺してしまっているので、自由を行使することの最も困難なレベルともいえる。自由でないということにすら気づいていないことが多いのである。そうであるから煉己は門派によっては修行の後の方に置かれてもいる。

道竅談 李涵虚(133)第十六章 先天とは何か

  道竅談 李涵虚(133)第十六章 先天とは何か 〈要点〉 先天は「虚」であり、後天は「実」である。また先天は「真」であり、後天は「仮」であるとされる。つまり先天は「真」ではあるが、「虚」の世界なのである。「虚」は「実」がなければ存在することができない。神仙道では後天は先天から生じたとするが、実は先天は後天がなければ存在することができない。先天のみでは存することのできないのである。後天には精、気、神がある。先天にもそれらは同様にある。しかし先天の精、気、神は真精、真気、真神と称される。この「真」とあるのは永遠、不変であるということである。後天の精、気、神はそれぞれが融合したり、消費されたりして変化をする。しかし、先天ではそうしたことは起こらない。先天は乾坤を軸とし、後天は坎離が軸となる。こうした考え方は「易」が乾卦(純陽 乾と乾)と坤卦(純陰 坤と坤)に始まり既済(離と坎)、未済(坎と離)で終わっているところにも見ることができる。

道竅談 李涵虚(132)第十五章 神気と性命

  道竅談 李涵虚(132)第十五章 神気と性命 気が理に従って現れれば、気はさらに重要視されるようになる。この気はつまり元始真一の気である。陰(腎)が陽光(腎の一陽)の発現を得て、鉛(心)は鉛の中に鉛(真鉛。腎の一陰)を置くことになる。これはまた一陽(腎の一陽)の発生するのを見ることでもある。そうであるからこの気はさらにより重要となるわけである。金液還丹の道はただひとつの鉛やひとつの気によるのではない。修行者はこれを奥義と心得るべきである。 〈補注〉世に「理」を発見した人を「聖人」とする。「理」は「天機」などと称されるがこれは先天の「気」から導かれる「理」である。「天機」はそれを知ろうとしても知ることができないという。自ずから天機に合うという状態にあれば、結果として天機の存在を知ることができるのみである。そうであるから中国では歴史が重視される。一方、聖人が示した「理」は理論や法則であるから誰でもそれを知ることができ、それによってエネルギー(気)を使うことが可能となる。腎は坎卦(陰陽陰)であるからこれを「陰」とする。この腎の一陽が「真鉛」であり、これは離卦(陽陰陽)の心へ入ることになる。一陽が心に入り、一陰が腎へと至ることで心は純陽、腎は純陰となって乾(純陽)、坤(純陰)つまり天地となる。これは先天の世界へと入ることでもある。ちなみに後天の世界は純陽、純陰ではなく陽陰陽(坎)と陰陽陰(離)で互いに陰陽を有するむぶびの世界である。

道竅談 李涵虚(131)第十五章 神気と性命

  道竅談 李涵虚(131)第十五章 神気と性命 天にあっては、理は気に従って現れる。道にあっては、気は理に従って現れる。理が気に従って現れるので気が重視されることになる。この気はイン蘊化醇(いんうんかじゅん。天地の気が交わって純粋であること。インは糸へんに因の字)の気である。人がこの気を得れば、体を生じさせることができる。その後に理が働くようになる。そうであるからこの気は重視されるのである。 〈補注〉「天」にあってはとあるのは「後天」である。「道」にあってはとあるのは「先天」である。後天の世界では先にも触れられたように「理」があって「気」が働く。一方、「先天」では「気」があって「理」が動くとされる。後天において「理」を用いれば「気」が働くのは本来、天地の根源に「気」が働いているからに他ならない。「元始真一の気」は「理」を生むものでもあるし、「理」から生まれるものでもある。つまり先天と後天とは「気」でつながることになる。「気」とは働きであり、エネルギーのことである。これを自然の中から導き出すには天地の「理」を知らなければならない。この「理」を武術において示しているのが套路である。

道竅談 李涵虚(130)第十五章 神気と性命

  道竅談 李涵虚(130)第十五章 神気と性命 無にあってこそ妙を観ることができるのであるが、既に一玄を得ていれば、その有において竅を観ることができる。また一玄を得るとは玄のまた玄を得ることである。性はそこ(玄のまた玄を悟る心の働き)にあるのであるが命も等しくそこに存している。つまり性は天命の働きそのものであるから、これは性でもあり命でもあるということになる。「本にあって性を尽くす」とされるが、そこには天が気をして物を成すという理を見る。(天)命によって人には性が与えられている。そうであるから「天命」とは人の性をいうことになる。人は理によって物を造る。ここに始めて気が生じる。これは性によってその命を立てていることになる。そうであるから性を尽くして命に至るとされるのである。 〈補注〉ここでは性と命の関係を先の「天命」という考え方から説明している。「天命」とは天からの命令によって行動を起こすことであるから、天からの命令を「性」の働きとし、その行動を「命」とするわけである。「性」とは天の働きそのものとされている。そして「性」を受けて働く「命」においては「理」が働くとする。こうして「物」が作られることで作用が生まれる。この作用のことを「気」とする。これら理と気は後天におけるものである。性と命は神仙道で使われる概念であるが、理と気は儒教で使われるもので、ここでは神仙道(道教)と儒教の理論的な整合が図られている。こうした多くのものを統一的な理論で組み立てようとするのが西派の特徴でもある。これは真理の普遍性の追究ということであろうが、それほど意義のあることでもあるまい。  

道竅談 李涵虚(129)第十五章 神気と性命

  道竅談 李涵虚(129)第十五章 神気と性命 『道徳経』には「無欲であればその妙を観ることができる。有欲であればその竅を観ることができる」とある。妙を観たり、竅を観たりするのは、玄の玄たる機による。まさに至静、無欲であることができれば「妙」を観ることができるのである。これは定性の功である。そして気が動く時に至れば、元始真一の気が虚無からやって来る。これが竅である。妙と竅とは違った名前であるが、等しく太極を本にしている。これらは同じところから出ているわけである。 〈補注〉ここでは老子の教えから性と命の功、先天の修行について述べている。神仙道では「静が極まれば動となる」とする。定性の功により「静」が極まると「動」が促される。それが「元始真一の気」である。この気が「動」であるために「先天真陽の一気」と「陽」をして称されることもある。ただこれは根源の気であるわけであるから陰陽、動静を超えたものを想定しても良いのであろうが、あくまで相対、おおいなる対立(太極)にこだわっている。こうした絶対的なものを好まない心象が「神」をなかなか生み出さない文化的土壌を作って行ったのであろう。古くから「神」や「占い」は無知蒙昧の徒を操るための方途と考えられることも多かった。

道竅談 李涵虚(128)第十五章 神気と性命

  道竅談 李涵虚(128)第十五章 神気と性命 『悟真篇』には「名前は違うが元は同じであることを知る人は少ない。性と命の二つは玄の玄なるものであり、これは機を得なければ分からない」とある。つまり性と命は異なる名前であるが、同じところから出ているとされている。それが性なのである。鉛と汞は異なる名前であるが、これらは等しく汞を源としている。そうであるから「水郷の鉛はただひとつ」とされるわけである。「ただひとつ」とある「ひとつ」とは鉛は汞と同じところから出ているからである。 〈補注〉性と命、鉛(神)と汞(気)はひとつであるが、共に「性」と「汞」から出ているとする。つまり心の働きがあらゆるものの根源にあるとするわけである。「汞」は腎であるから心の働きではないと思われるかもしれないが、ここでの「汞」とは腎の一陽をいっている。これは「真鉛」とされるもので心(鉛)に属している。また先天の「性」と後天の「汞」で心と体の対応という形を見ていることも分かる。同じ構造は先天では性と命、後天では鉛と汞、先天後天では性と汞となる。

道竅談 李涵虚(127)第十五章 神気と性命

  道竅談 李涵虚(127)第十五章 神気と性命 〈本文〉 後天の道は神気を用いる。先天の道は性命を用いる。性命、神気は似てはいるが、明らかに違ったものでもある。そうであるから『入薬鏡』には「つまり性命は神気ではない。水郷の鉛はただひとつであるというのを、甚だいい加減に考えてはならない。修行者はこれらの違いをよく知らなければならない。つまり神気を修して後天を悟るのであり、性命を修して先天を悟るのである」と記されている。これはどういうことであるのか。それは性において働いている命が、性命であるということである。そうであるからこれらは本来はひとつであって、立命の心法ということになる。 〈補注〉「水郷の鉛」とは腎の一陽のことである。腎は「汞」「水」「気」で象徴され、心は「鉛」「火」「神」で表される。心には一陰があり、腎には一陽がある。この一陽が動いて心に入ることで心と腎との融合が果たされるのが後天の修行となる。そうであるから神(心)と気(腎)は二つであるが一つでもあるのである。また先天の性(心の働き)と命(体の働き)は「立命」という語に志(性)と行動(命)が共に含まれることで分かるように性と命も二つであり、一つでもあるのである。このことを「立命の心法」という語は明らかに示している。

道竅談 李涵虚(126)第十五章 神気と性命

  道竅談 李涵虚(126)第十五章 神気と性命 「易」や「詩」を儒教の経典「易経」「詩経」としてどう扱うかは後代の儒学者をいろいろと悩ませることになる。「易」は占いに使って良いものであるか、ただ読んで学ぶべきものを学ぶべきかということも論争となっている。また奔放な情感を述べる「詩」もそこから何らかの倫理的なものを読み取ろうとする動きもあった。また一方では「易」や「詩」が儒教の経典とされたのは、自由な心の動きを知るためであるとして、そこか強いて倫理的なものを読み取る必要はないと考える儒者も居た。そうした傾向は「論語や孟子を読むより、性愛小説である金瓶梅を読んだ方が良い」という意見も生み出すことになる。「論語」や「孟子」では本当に人の心の動きは分からない。そうであるなら修養の基本となる人の本来の心の働きを知ることはできないと考えるわけである。

道竅談 李涵虚(125)第十五章 神気と性命

  道竅談 李涵虚(125)第十五章 神気と性命 それは修行を深めて行く過程で出現する「神秘体験(宗教体験)」にとらわれることをできるだけ排除するためである。緻密な修行体系を示すことで幻覚や幻聴の入る「隙」を与えないようにしているわけである。孔子は「怪力乱神」を語らないとして「迷信」との距離をおくことの重要性を教えていた。そうであるならどうして占いの書である「易」は儒教の重要な経典のひとつになっているのであろうか。それは「詩」と同じく、太古の人々の自由な心の動きを知ることができるものとして重視していたのである。神仙道でも儒教でも重要なことは本来の心の働きであり、それは日常生活においても働いている。だた時に欲望や誤った見解により強いて違った働きをすることがあるに過ぎない。そうであるから神秘体験を経る必要はないのである。

道竅談 李涵虚(124)第十五章 神気と性命

  道竅談 李涵虚(124)第十五章 神気と性命 〈要点〉 後天の神と気、先天の性と命はそれぞれ別のものでもあるが、根源においてはひとつであるとする。また後天も先天も違いがあるが、後天の修行が成就した時には先天の世界が開けているとも教えている。つまり先天も後天の根源においてはひとつのものなのである。神仙道ではすべてはひとつというところを中心に教えを説いているものもあるし、それぞれに違いのがあることを強調する西派のようなシステムも存している。なぜ西派ではこのように究極においては無意味ともいうべき修行の階梯にこだわるのであろうか。

道竅談 李涵虚(123)第十四章 二種類の丹砂

  道竅談 李涵虚(123)第十四章 二種類の丹砂 〈本文〉 後天の学が成就したならば、鉛(心)をして汞(体)を制することができ、ここい「砂」が得られる。この「砂」は「七返の宝」で、至清無瑕であって、小還丹ともされている。先天の学が成就したならば、鉛(心)を抽(ひ)いて汞(体)に添えられて「砂」が得られる。この「砂」は「九転の至宝」であり、金光を内に含み、大還丹と称される。 〈補注〉「七返の宝」「九転の至宝」の九は陽の極数である。奇数は陽とされるので七は九に次ぐ陽を現す数ということになる。つまりこれは九は大還丹、七は小還丹に対応している。ただ後天、先天としているが、究極においては同じことであって、心身がひとつである本来あるべき状態に戻れば良いというだけのことなのである。

道竅談 李涵虚(122)第十四章 二種類の丹砂

  道竅談 李涵虚(122)第十四章 二種類の丹砂 「柔」ではいうならば心と体の隔たりが緩やかになっている、区別があまりない状態になっているわけである。そうであるから心をもって体に関与することもできるし、体をもって心に係ることもできる。太極拳でゆっくり動くことで心が鎮まって行く。また予備式で心が鎮まれば柔らかに動くことが可能となる。こうして心身に柔らかさを得ることができる。それは「動」と「静」の隔たりが緩やかになることでもある。危機的あ状況にあって、最も重要なことは止まることなのである。先ずは動揺する心身を一瞬、止める。そのために太極拳ではゆっくり動いて、何時でも止まることのできる練習をするわけである。何時でも止まることのできる状態に自らを置いておくためにゆっくりと動くのである。これは仏教の止観と同じといえるし、上座部の瞑想法でも感情を一時的に止めるメソッドがある。

道竅談 李涵虚(121)第十四章 二種類の丹砂

  道竅談 李涵虚(121)第十四章 二種類の丹砂 後天の「砂」で求められているのは、心をして体を制することである。太極拳では「静」を得ることによってこれが得られるとする。太極拳ではゆっくり動くことで「静」を得ようとする。一般的な武術では馬歩のような歩形の練習で「静」を得ることを目指した。これは外的な身体の鍛錬としての方法を内的な修練へと応用しようとしたものである。「静」がある程度、実感できるようになったら、「柔」が得られる。「柔」は意図的に作ることのできない状態である。これを意図的に作ろうとすると「(怠)惰」となる。力を抜くだけでは「柔」にはならない。剛へと転ずることできなければが真の「柔」とはいえないのである。こうした後天(静)と先天(柔)の違いをよく認識して煉らないと充分に功を深めることはできない。

道竅談 李涵虚(120)第十四章 二種類の丹砂

  道竅談 李涵虚(120)第十四章 二種類の丹砂 次は「心=鉛」と「体=汞」が融合した状態で、この段階では先天の「砂」が得られるとする。後天の「砂」を得る段階では瞑想のテクニックなどが用いられることもあるが、先天の「砂」は無為にして自然な状態で得られるされている。神仙道ではこれを「温養」や「封固」とする。自ずからの心身の変容を待つわけである。こお段階では意図して心身を制御しなくても適切な状態を保持することが可能となっている。神仙道ではこうした状態を「天機を知る」「天機を盗む」ということがある。「天機」とは天の変化の機会のことでそれと一体となって自らも行動をすることになる。

道竅談 李涵虚(119)第十四章 二種類の丹砂

  道竅談 李涵虚(119)第十四章 二種類の丹砂 〈要点〉 丹砂(辰砂)とは硫黄と水銀の化合物である。ここで述べている神仙道の「丹砂」は、こうした化学的な経験を背景に発想されたもので、神仙道では「心=鉛」と「体=汞(水銀)」の「化合物」とする。こうした「化合物」の「砂」は心が体をコントロールできる状態になって得られるものがひとつで、これが後天の「砂」である。この段階で心身が「化学変化」することになる。つまり今までにないような心身の状態が得られるということである。心が制御されるようになれば感情にまかせた行動をするようなことはなくなる。

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(25)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(25) 現代の「立禅」はいうならば太古の混元式の復活である。これはさらに手を下げることでよりその意図は明確になると思われる。また歩幅も馬歩のように肩幅にこだわる必要はない。「立禅」が今日のように普遍的なものとしてとらえられるのは、それが現代人の無意識に存するイメージと合致するためと考えられる。数年前からマインドフルネスが注目されている。これは瞑想により心がフルネス(豊か)になるということであるが、禅などの伝統的な瞑想法の伝承者の中にはマインドフルネスを禅などを簡単にしたものと見なす傾向がある。しかし、そうではない。マインドフルネスの傾向は宗教にとらわれた禅などの瞑想から宗教的なものを排してより自由なものにしているのである。そしてこれからはマインドだけではなく、ボディもフルネスでなければならないであろう。マインド、ボディのフルネスの方法として「立禅」はおおきな可能性と示唆を持つものと考えられるのである。これまで宗教や武術といった中でしかできなかった心身の活性化は「立禅」によって可能となるのである。  

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(24)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(24) ただ合気道においても相手を制するという攻撃性をおおきく除去することはできなかった。植芝盛平は弟子たちが坐り技一か条を練習していれば機嫌が良かったという。これは「呼吸法」(坐り技合気上げ)に合気道の原点があることを直感していたためと思われる。それでも「呼吸法」だけをやっていれば良いとまでは言い切れなかったのは王キョウ斎も同様であろう。おそらくそこまで行ってしまうと弟子が居なくなり、伝承が絶えてしまったことであろう。形意拳において混元式と三才式だけを伝えた流れは絶えてしまった。そして五行拳や十二形拳を持つものが一種の矛盾をはらみながら現代まで続いて来ていると考えられる。こうしたあたりの門派の「構造」をよく考えないと、道芸の「武術」はただの武芸。武術に堕してしまうことになる。

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(23)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(23) およそ武術の門派が表れるのは戦いの時代の後であるし、競技試合をしている人たちは一様に「形(套路)は試合には使えない」という。ランニングをしてスタミナをつけてサンドバッグを打っていた方が良いとするのである。これは経験から出た正直な言葉である。套路を学ぶのは攻防をコントロールするためであり、ただ相手を打つだけであるならそうしたものは必要がない。軍隊や警察で套路が熱心に練習、研究されないのと同じである。武術はあくまで「護身」にあるのである。そうであるから競技試合を取り入れることは本来あるべき武術の根本を崩すことになる。武術は攻防そのものが生じないようにするのが理想であるからである。道芸の武術は「護身」が基本であり相手の攻撃を受け流す練習とすることが適当といえる。

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(22)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(22) 後の王キョウ斎は『意拳正軌』の内容は破棄してしまったとされ、この文献は香港に持ち出されたために人々の知るところとなった。私見では『意拳正軌』は形意拳の古伝をかなり正確に記しているのではなかろうかと考える。それは混元式の捉え方にある。『意拳正軌』では混元式から武術的な力である「勁」が得られるとしているが、この場合の「勁」とは具体的にはどのような力であるのであろうか。この「勁」は人間の根源的な心身の働きである「性」に由来するものであるから、相手を助けるものでなければならない。それは「和合」の働きであり、太極拳でいうなら太和の気の働きということになる。相手を打つのではなく相手と一体となるような働きとしなければならない。これを相手を打つ力ととらえると混元式は馬歩トウ功に近づかなければならなくなる。

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(21)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(21) 繰り返し述べているように混元式には一定の形は無い。それは静坐も同様である。ただ求められるのはなるべく意図的なものを加えない自然であることに過ぎない。自然であることにより、本来の心身の働き(性の働き)が生じると考えるわけである。これを例えるのには「子供が倒れようとする時には誰でも思わず手を差し伸べる」ということがある。この「思わず」という働きこそが、本来の心身の働きであることを証ししているとする。そうであるから混元式を練ると相手を打とうとする働きは生じてこないことになる。ここに混元式をベースとする場合の「武術的展開」への矛盾が生まれることになった。そうであるから王キョウ斎の示していたような混元式を練ることは意拳というシステムそのものの崩壊につながるので、次第に混元式とはいっても馬歩(李見宇)や含義歩(虚歩、半身、王玉芳)の鍛錬となってしまうのである。

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(20)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(20) 王キョウ斎の混元式と李見宇や王玉芳の混元式を見て思うのは、王キョウ斎のものは静坐をベースにしているのではないかということである。静坐から立ち上がった形が混元式として示されている形ではないかと思われるのである。それは王の手の位置がちょうど瞑想をしている時に膝に手を置いた位置とほぼ同じであるからである。一方、李見宇はこれは完全に立っての練功の位置(両掌を向かい合わせる)となっている。静坐では特に手をどのようにするという決まりはない。坐禅のように臍のあたりで組んでも良いし、ヨーガのように両手を広げて膝の上に置いても構わない。ヨーガでは膝に手を置く場合は親指と人差し指の先を付けているのをよく見るが、静坐ではただ掌を置くだけというのもあり得る。こうした静坐から立った状態が王キョウ斎の混元式そのものなのである。

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(19)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(19) 意拳で最も重要とする「混元式」であるが、王キョウ斎の弟子の李見宇は肩幅に足を開いて両掌を腹部で向き合わせる形としている。また娘の王玉芳は半身で腹部で両掌を向かい合わせる姿勢を示している。これは李が馬歩、王が半身であるところに違いが見られるが掌の位置などは等しい。もちろん「混元」式には一定の形がないのであるから、どちらが間違っているということではない。王キョウ斎の示す形は足幅も狭く踵の幅が20センチほどしか離れていないようであり、これはまさに「ただ立っている」だけである。李見宇も王玉芳も共に「ただ立っている」だけに耐えられなくなって何らかの武術的な練法を加えたのであろう(王キョウ斎自身がある程度の妥協をして武術的な力を求める弟子の要求に答えた部分があったのかもしれない)。

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(18)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(18) ちなみに八卦拳でも太極拳でも先天後天の合一という考え方はしない。八卦拳では套路はあくまで後天(八卦)で表現されるものとする。形意拳で殊更に「先天」をいうのは、形意拳が本来、混元式や三才式から生まれたものであるからである。これらは武術というより導引というべきものである。想像するに大東流の「御式内」も合気道でいう「呼吸法」(坐っての合気上げ)ではなかったかと思う。これも武術といえば武術とも考えられるが、これだけで攻防が行えるわけではない。ただこうした稽古を通して相手の心身の動きを微細に知ることができる。相手の心身の動きを微細に知るには先ずは自分の心身の動きを微細に知っておかなければならない。このように「御式内」は自己の修養としてもこれを練ることが可能なのである。これは混元式や三才式も同じである。

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(17)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(17) 中国の武術界では二十世紀の始めあたりから「形の根本にあるもの」があるのではないかとする考え方が広まるようになる。姜容樵は当初そうした話を聞いたが信じることはできなかったとするが、後には套路には天然の内功が含まれていると考えるようになった、と述べている。これは先天の内功でもあろう。先天の内功があって、それが開かれた時に形をなしたのが套路であると考えるわけである。こうしたことを言いだしたのは孫禄堂のようであるが、孫は先天後天の合一ということをよく述べていた。これは王キョウ斎の混元式が全ての根本であるとする考えと同じである。孫も王も共に形意拳を中心に拳を練って来ているので、こうした考え方は形意拳に由来するものと見なすことができるであろう。