道竅談 李涵虚(134)第十六章 先天とは何か

 道竅談 李涵虚(134)第十六章 先天とは何か

ひとえに我々の生きる世界である後天に「真」の世界である先天のあることを思考の枠組みとして設定しなければならなかったのは、後天の世界が不変のものではないことを示すために他ならない。神として示されてるのは「理性、思考」の世界である。気とは「感性、情感」の世界である。精とは「物質」の世界である。我々の世界はこれらによって構成されている。こうした後天の世界にとらわれているが我々であるが、それを脱することを目途とするのが神仙道なのである。もっとも簡単に「規制の世界」から脱することのできるのが神のレベルである。考えることは自由にできる。そうであるから神仙道では第一に煉己を置いて思考のとらわれから脱することのできることを教えている。しかし、神のレベルは「常識」という壁に阻まれて、その自由を自分で圧殺してしまっているので、自由を行使することの最も困難なレベルともいえる。自由でないということにすら気づいていないことが多いのである。そうであるから煉己は門派によっては修行の後の方に置かれてもいる。

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