道竅談 李涵虚(127)第十五章 神気と性命

 道竅談 李涵虚(127)第十五章 神気と性命

〈本文〉

後天の道は神気を用いる。先天の道は性命を用いる。性命、神気は似てはいるが、明らかに違ったものでもある。そうであるから『入薬鏡』には「つまり性命は神気ではない。水郷の鉛はただひとつであるというのを、甚だいい加減に考えてはならない。修行者はこれらの違いをよく知らなければならない。つまり神気を修して後天を悟るのであり、性命を修して先天を悟るのである」と記されている。これはどういうことであるのか。それは性において働いている命が、性命であるということである。そうであるからこれらは本来はひとつであって、立命の心法ということになる。

〈補注〉「水郷の鉛」とは腎の一陽のことである。腎は「汞」「水」「気」で象徴され、心は「鉛」「火」「神」で表される。心には一陰があり、腎には一陽がある。この一陽が動いて心に入ることで心と腎との融合が果たされるのが後天の修行となる。そうであるから神(心)と気(腎)は二つであるが一つでもあるのである。また先天の性(心の働き)と命(体の働き)は「立命」という語に志(性)と行動(命)が共に含まれることで分かるように性と命も二つであり、一つでもあるのである。このことを「立命の心法」という語は明らかに示している。

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