道竅談 李涵虚(129)第十五章 神気と性命
道竅談 李涵虚(129)第十五章 神気と性命
『道徳経』には「無欲であればその妙を観ることができる。有欲であればその竅を観ることができる」とある。妙を観たり、竅を観たりするのは、玄の玄たる機による。まさに至静、無欲であることができれば「妙」を観ることができるのである。これは定性の功である。そして気が動く時に至れば、元始真一の気が虚無からやって来る。これが竅である。妙と竅とは違った名前であるが、等しく太極を本にしている。これらは同じところから出ているわけである。
〈補注〉ここでは老子の教えから性と命の功、先天の修行について述べている。神仙道では「静が極まれば動となる」とする。定性の功により「静」が極まると「動」が促される。それが「元始真一の気」である。この気が「動」であるために「先天真陽の一気」と「陽」をして称されることもある。ただこれは根源の気であるわけであるから陰陽、動静を超えたものを想定しても良いのであろうが、あくまで相対、おおいなる対立(太極)にこだわっている。こうした絶対的なものを好まない心象が「神」をなかなか生み出さない文化的土壌を作って行ったのであろう。古くから「神」や「占い」は無知蒙昧の徒を操るための方途と考えられることも多かった。