道竅談 李涵虚(130)第十五章 神気と性命

 道竅談 李涵虚(130)第十五章 神気と性命

無にあってこそ妙を観ることができるのであるが、既に一玄を得ていれば、その有において竅を観ることができる。また一玄を得るとは玄のまた玄を得ることである。性はそこ(玄のまた玄を悟る心の働き)にあるのであるが命も等しくそこに存している。つまり性は天命の働きそのものであるから、これは性でもあり命でもあるということになる。「本にあって性を尽くす」とされるが、そこには天が気をして物を成すという理を見る。(天)命によって人には性が与えられている。そうであるから「天命」とは人の性をいうことになる。人は理によって物を造る。ここに始めて気が生じる。これは性によってその命を立てていることになる。そうであるから性を尽くして命に至るとされるのである。

〈補注〉ここでは性と命の関係を先の「天命」という考え方から説明している。「天命」とは天からの命令によって行動を起こすことであるから、天からの命令を「性」の働きとし、その行動を「命」とするわけである。「性」とは天の働きそのものとされている。そして「性」を受けて働く「命」においては「理」が働くとする。こうして「物」が作られることで作用が生まれる。この作用のことを「気」とする。これら理と気は後天におけるものである。性と命は神仙道で使われる概念であるが、理と気は儒教で使われるもので、ここでは神仙道(道教)と儒教の理論的な整合が図られている。こうした多くのものを統一的な理論で組み立てようとするのが西派の特徴でもある。これは真理の普遍性の追究ということであろうが、それほど意義のあることでもあるまい。

 

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