道竅談 李涵虚(137)第十六章 先天とは何か

 道竅談 李涵虚(137)第十六章 先天とは何か

天より先に存在していたとは、天がそこから生まれたということである。人が生まれ、物が生まれたのは先天からなのである。この気には天地の気が密接に交わっている様子を見ることができる。それはいまだ形を持つことのない太虚であり、人も物もいまだ生まれてはいない先にこの気があり、これは天に先んじて存在していた。そのために先天と称するのである。これが二つ目の側面である。

仙道の神々や仏の生まれる前が先天である。既に述べた二つの側面とこの側面が先天にはある。この気は虚無の中からきており「太乙」と称せられる。金丹(自由であることを悟ること)は先天によることで得られる。そうであるから「祖」というのであり「始」というのであり、含真(真を含む)といわれるのである。天に先んじて出現していることから、天より先に存在しているとされる。これら三つの側面がある。そうであるからこれを先天と称するわけで、これらが先天が持っている三つの側面となる。

〈補注〉第二の側面はすべてのものが先天から生まれたということである。生成の働きそのものは後天においてなされるのであるが、その根源のすべては先天にあるとしている。そして第三は神仏の生まれる前が先天であると示される。これからは宗教的なもののとらわれから脱するための構造を構築するために先天のあることを知ることができる。また真の自由は後天においてしか得られないとも教える。ただ後天での自由は物質的な制限があるので限定的なものに留まるが、浄土教のように極楽世界を瞑想で夢想するだけでは真の自由は得られないのである。

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