道竅談 李涵虚(140)第十六章 先天とは何か

 道竅談 李涵虚(140)第十六章 先天とは何か

この「気」は「霊」なるものである。「霊」なるものであるから「神」でもある。この「気」は「妙」なるものである。「妙」なるものであるから「精」でもある。上って巡り、下って交わるのが「気」である。そうであるから天地の「精」と「神」は、すべて「気」の中にあるのである。人はこの「気」を得て生を得る。この「気」は天地の「気」である。この「気」には清があり、濁がある。剛があり、柔がある。その剛を得たならば男となり、その柔を得たら女となる。その清を得たならば知者となり、その濁を得たならば愚者となる。

〈補注〉ここでも「気」を中心とする生成の働きが述べられている。「気」は先天の「一旡」に通じるものであるからこれは「神」でも「精」でもあることになる。濁気を得て生まれた子供が愚者となるという見方はおもしろい。確かに人としてのあるべきを理解していない人の気は濁りがあるように感じられはする。

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