道竅談 李涵虚(126)第十五章 神気と性命
道竅談 李涵虚(126)第十五章 神気と性命
「易」や「詩」を儒教の経典「易経」「詩経」としてどう扱うかは後代の儒学者をいろいろと悩ませることになる。「易」は占いに使って良いものであるか、ただ読んで学ぶべきものを学ぶべきかということも論争となっている。また奔放な情感を述べる「詩」もそこから何らかの倫理的なものを読み取ろうとする動きもあった。また一方では「易」や「詩」が儒教の経典とされたのは、自由な心の動きを知るためであるとして、そこか強いて倫理的なものを読み取る必要はないと考える儒者も居た。そうした傾向は「論語や孟子を読むより、性愛小説である金瓶梅を読んだ方が良い」という意見も生み出すことになる。「論語」や「孟子」では本当に人の心の動きは分からない。そうであるなら修養の基本となる人の本来の心の働きを知ることはできないと考えるわけである。