第九十五話 立禅と馬歩トウ功(21)

第九十五話 立禅と馬歩トウ功(21)

繰り返し述べているように混元式には一定の形は無い。それは静坐も同様である。ただ求められるのはなるべく意図的なものを加えない自然であることに過ぎない。自然であることにより、本来の心身の働き(性の働き)が生じると考えるわけである。これを例えるのには「子供が倒れようとする時には誰でも思わず手を差し伸べる」ということがある。この「思わず」という働きこそが、本来の心身の働きであることを証ししているとする。そうであるから混元式を練ると相手を打とうとする働きは生じてこないことになる。ここに混元式をベースとする場合の「武術的展開」への矛盾が生まれることになった。そうであるから王キョウ斎の示していたような混元式を練ることは意拳というシステムそのものの崩壊につながるので、次第に混元式とはいっても馬歩(李見宇)や含義歩(虚歩、半身、王玉芳)の鍛錬となってしまうのである。

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