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第六章 正座と四股と馬歩(4)

  第六章 正座と四股と馬歩(4) 正座による鍛錬は、特に正座から立ち上がることで鍛錬をする。その典型が合気道での膝行であろう。不安定な姿勢で中腰のまま左右の足を入れ替えて歩くことで体幹と足腰を同時に鍛えることができる。膝行は徳川慶喜も鍛錬法として日常的に行っていたとされている。一方、福沢諭吉は抜刀術を鍛錬して健康法としていたらしい。このように正座を応用した鍛錬法は、かつてはかなり広く親しまれていたように思われる。膝行の中腰の姿勢での鍛錬に、馬歩との共通性を見ることも可能であろう。

第六章 正座と四股と馬歩(3)

  第六章 正座と四股と馬歩(3) 日本において坐り技が積極的に稽古されるようになるのは江戸時代の中期以降である。抜刀術でも正座の稽古の有効であることが認識されて、正座からの抜刀がよく練習されるようになった。居合は古くは居合腰とされる胡座のような坐法をとっていた。これは抜刀術が考案がれた中世の終わり頃には一般的な坐り方であった。近世になって正座が広く行われる以前は立膝や胡座が一般的であり、鎌倉時代の木造などでは足の裏を合わせたような坐り方をしている。おそらく正座での鍛錬は柔術から始まったのであろう。それが抜刀術にとり入れられたが、日常生活では正座の時には刀は腰から外している。正座からの抜刀は純粋に稽古のためのもので、坐っている状態から立ち上がることで足腰が鍛えられると考えられていたわけである。これはスクワットなどと同じ鍛錬であるとすることができよう。

第六章 正座と四股と馬歩(2)

  第六章 正座と四股と馬歩(2) 現在、正座を鍛錬法として最も積極的に取り入れているのは合気道であろう。合気道では「呼吸法(呼吸力養成法)」を正座で行う。合気道の中核をなす呼吸力の鍛錬方法を坐り技で行うのは、相手の「肩」に合気を掛ける練習に特化するために他ならない。これに習熟したら立ち技で「肩」から「腰」に合気を掛ける練習をする。「腰」に合気を掛けるには「肩」を通して行うのが合気道の基本である。ちなみに太極拳では「腰」に合気を掛けるが、それは「肩」を通してではない。相手の攻撃して来る勢いを利用してバランスを崩すことで腰に合気を掛けようとするのである(重心を浮かせるということ)。そのために相手に腕を強く掴ませるような鍛錬法は用いない。腕を強く掴ませるのは手首と肩を固定して「肩」への合気を掛けやすくするためである。

第六章 正座と四股と馬歩(1)

  第六章 正座と四股と馬歩(1) 正座の鍛錬は日本の武術を特徴付けるものであろう。こうした鍛錬法は世界の他の武術に見ることはできない。また四股は相撲の鍛錬法であるが、四股は本来は「醜(しこ)」であり、古代の日本では力強いことは醜いことと考えられていた。これは「禍(まが)」も同様で曲がって力を溜めている状態を好ましくないものと考えていたのであった。一方、まっすぐである「直(なお)」はあるべき好ましい状態と捉えられていた。四股は力強く足を踏む行為であるのでそれは醜いものと捉えられたのである。これと同様に足を踏み込む鍛錬法としては中国武術に震脚として伝えられているものがある。特に陳家の太極拳ではそれを多用する。この四股は中国武術からすれば馬歩の鍛錬の一種とすることができよう。椅子を使う生活が一般的である中国ではその姿勢に近い馬歩が鍛錬の中心となり、近世以降、畳が広く普及してからは日本では正座が生活の中心であった。正座や馬歩の鍛錬法が編み出されたのはいづれも日常生活をベースとしていたと考えられる。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(15)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(15) 鄭曼青は太極拳を古代の神聖舞踏から発達したものと考えていた(「自修新法」)。それは天と地の姿をそのままに現すものでなければならなかった。またそれは太極拳の古代より伝わる秘伝の根本でもあった。ある意味で簡易式は中国全土に広まりつつあった太極拳の「奥義」を将来に伝えるために編まれたものと考えることもできるのではなかろうか。またこの「奥義」は呂殿臣にも伝えられた。この露禅架とされる套路と簡易式は意外にも共通点が少なくない。露禅架や呉家との共通性を考えると「方」の拳はまさに張三豊の太極拳の根幹であったと思われるのである。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(14)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(14) 一方、「円」の拳は天の姿を地に移すことで天地の合一を考える。天は「変化」を有し、地は「安定」をしている。これらをひとつにすることで安定した変化を得ることが可能となるわけである。これを孫禄堂は「先天後天の合一」としている。つまり「天」を先天とし、「地」を後天としてそれらが合一することで安定した変化が得られることを見出したわけである。孫は特に八卦掌でこれを強く主張しているが八卦掌の歩法は扣歩と擺歩で共に「円」の歩法となっている。そうであるから八卦掌が最も天地の合一、先天後天の合一を明らかにしているとするわけである(先天後天については天地と同じと見ることに問題がないわけではないが孫禄堂はそのように考えていたようである)。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(13)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(13) 中国では「天円地方」とする考え方がある。天は「円」で、地は「方(四角)」であるとするのであるが、それをそのままに表現して、大宇宙の天地の姿を、小宇宙としての人体で表現しようとしたのが「方」の拳であった。これは小周天も同様で、内的な天地(乾坤)を作り出すことで小宇宙としての人体を本来の姿に戻そうとしたのであった。このように「方」の拳とは大宇宙(大太極)と小宇宙(小太極)が等しいものであり、その姿に戻すためのエクササイズとしての意義を有したものであったのである。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(12)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(12) かつて上海で楊澄甫と呉鑑泉が推手の表演をしたことがあった。その時、楊家と呉家の太極拳は北京から上海に伝えられて知られるようになっていたが、楊家と呉家では形が違うので「どちらが正統か」などという論争もあったという。あるいは一触即発が、と両方の弟子たちは器具したが共に推手を演じて琴なきに終わった。演武を終えた澄甫は「楊家の秘伝が呉家には伝わっている」と慨嘆したという。それは左右の軸を使うことを鑑泉が知っていたということであろう。一見して楊家と呉家の套路は違っているうようであるが、それはいうならば「強調点」の違いであり、表現の差異であって内実に変わりは無いということである。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(11)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(11) 太極拳に特有の3つのラインを最も明確に使っているのは呉家である。これは形としては両足を平行にすることで左右の軸の移動が明確になった。一方、楊家は腰の動き(中心軸)を中心とするために左右の動きは中心軸の動きの中に含まれる形となる。ただ明らかに左右の軸は使われるのであるが、これを口伝によって意識することがなければなかなか三つの軸を使えるようにはならない。鄭曼青が両足を平行にしたり、直角の位置関係にしたりする歩法をとっているのは、呉家と同じように左右の軸の移動を明確にするために他ならない。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(10)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(10) 一般的な拳術が主として「中心軸」だけを使うのに対して、太極拳では左右にも軸があると考える。これは推手で相手と完全に向かい合う形をとることとも関係している。推手で相手と向かい合うのは中心軸から左右の軸を使って相手の力を流して(化、走)しまうことを目的としているからに他ならない。通常の対打は互いに半身で対する。これは中心軸がぶれることなく攻防の動きを行えるようにするためである。つまり安定した強い中心軸があれば威力の大きい相手の攻撃も受けることができるわけである。一方、太極拳では相手の力を左右へと流してしまう。ただ相手の力を外すだけなら中心軸だけで良いが、それを捕捉したまま(粘、連)攻防を転換しようとするのであれば左右に軸を立てる必要があったのである。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(9)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(9) 通常の武術で用いられる体の軸は中心に限られる。中国武術ではこれを「三尖相照」として拳訣のひとつになっている。「三尖」とは拳先、鼻先、足先であり、これらが中心軸で統一される位置関係にあることが重要とする。「鼻先」が象徴しているのは中心軸であり、これは腰の切れをうまく使うために安定した中心軸がなければならないことを教えている。「拳先」「足先」は攻撃部位に対して力を集中させる体の使い方をいうものである。これらは共に「良い位置関係」になければならないわけであるが、その「良い位置関係」は具体的には門派によって違っている。それは体の使い方に違いが有るために他ならないが、全ては中心 軸の力が最大限に発揮されるように工夫されている。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(8)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(8) つまり鄭曼青は「方」の歩法を用いる簡易式を張三豊の太極拳として原理的に導き出していたと思われるわけなのである。張三豊の太極拳がどのようなものであったのかを知る史料はない。そこでこれを原理的に詰めて行くと、そこに「方」の歩法というヒントがあったわけである。鄭曼青の『鄭子太極拳自修新法』には歩法を示す図として長方形が用いられ、それが更に中央で二分割されている。つまり細長い長方形が二つ合わさって左右の足の位置を表しているのであるが、これは太極拳で用いる三つの軸と関係している。つまりこの三つの軸を見出したところに張三豊の「太極拳」としての卓越した点があったと考えたわけである。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(7)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(7) 形意拳の三才式は馬歩で腕を天(上段)、人(中段)、地(下段)にとる。この次に劈拳に似た動きの三体式を練るのであるが、その前に三才式の変化として中断の構え(もちろん上段、下段への変化を含む)で前後に歩をずらす練法もある(子午トウの一種)。この時に左右の足を90度にとる。そして三体式になると前に出る動きをするので後の足は45度とする。これを呉家では前足に体重をかけることで馬歩を継続できる姿勢(前傾姿勢の弓歩)を開発したのであった。こうして見ると鄭曼青における「方」の歩法を用いた簡易式への模索は形意拳でいうなら五行拳から三才式への「還元」に等しいものであったことが分かる。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(6)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(6) 呉家の太極拳では快架は「円」の歩法であり、慢架は「方」の歩法が用いられている。最もよく知られているのは単鞭でこれは完全な馬歩をとっている。他にも倒輦猴などに「方」の歩法を見ることができるが基本的にはほとんどの動きで両足は平行になるので呉家の太極拳は「方」を基本としているといって良いであろう。こうした呉家の組み立て方からよく分かるのは「方」の歩法が馬歩を基本としているということである。それが前後にずれると呉家の「弓歩」の形となる。馬歩は基礎功の鍛錬としても用いられるように気を下ろす働きを有している。陳家の套路で時に金剛搗碓が出てくるのは、そこで気を沈めているからである。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(5)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(5) 呉家では楊露禅と班侯から用法架(円拳)と行功(方拳)を学んでいる。露禅は故郷の武禹襄にも本来の太極拳ではなく用法架を教えていた。これは北京でも同様であった。行功が専ら内的な力を養うことを主眼としているのに対して、用法架は攻防の動きにつながる技が中心となっている。こうした露禅の教え方は秘伝を隠したとも考えられるし、武術に興味のある弟子に受け入れやすいところから教えたと解することもできよう。それはともかく「用法架」は歴代の拳士が独自に工夫できるパートであり、これを「長拳」であるとか「快拳」とすることもあるが、時代に合うものとして「用法架」は存している。呉家では快架(快拳)が用法架をベースとしている。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(4)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(4) 方拳と円拳なる概念が伝えられているのは呉家太極拳である。言われているのは方拳は号令をかけて行うもので、円拳は動きを区切ることなく練るものであるとされている。ただ呉家では一般的に方拳という概念を事さらに設けなければならないほど、号令を用いていの練習が重視されているわけではない。実は方拳と円拳は歩法をいうもので、既に触れているように楊家の太極拳の老架(露禅架)は方拳で、新架(澄甫架)は円拳とする。呉家では先に北京に来た楊露禅から用法架(長拳とも称される)を学び、後には息子の班侯より本来の行功(架)の教えを得たのであった。そのため露禅から得た「円」の套路と班候から得た「方」の套路を区別する必要があったものと思われる。ただ現在の呉家太極拳はこれら二つの系統に独自の工夫を加えて編成されたものであり、既に「円」と「方」の区別をする必要は無くなっている。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(3)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(3) 楊家の老架(露禅架)では「方」の歩法を多用する。前に出る時には一旦「方」の歩法で勢いのままに真っ直ぐに足を出して、それから足先を45度内にして「円」の歩法に変化する。これが新架では初めから「円」の歩法を取っている。「方」の歩法では個々の技の勢いがそれぞれに明確であるが、「円」の歩法であれば余り明らかにはされず全てが丸い流れの中に組み込まれてしまうことになる。これは老架が比較的明勁的な動きであるのに対して、新架は暗勁に近いとすることができようか。簡易式に見られる歩法は新架には無い老架に近いものが取り入れられており、これが師の楊澄甫が鄭曼青に授けた「奥義」ではなかったかと思われるのである。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(2)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(2) 簡易式では例えばラン雀尾の初めの動作(提手上勢とする場合もある)で右足先を真っ直ぐ前方に出している。倒輦猴では両足を平行にするし、白鶴亮翅や分脚では左右の足は90度をとる。こうした歩法は「方」の歩法であり、45度に曲げるのは「円」の歩法である。楊家の新架(澄甫架)では特に「円」の歩法が強調されているが、これは次の動きを先取りして勢いを導くには良い歩法で、「円」の歩法を多用する新架は丸い流れの中でいろいろな技が展開されている。これは太極拳の拳訣である「綿綿不断」をよく表現するもので、ひとつの動作が終わろうとして終わらないところから次の動作が始まろうとする太極拳における技の連続性が実現されている。

外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(1)

  外伝9鄭曼青の学んだ「奥義」〜方拳と円拳〜(1) 鄭曼青は師である楊澄甫から特別の「奥義」を学んだとされている。そのきっかけとなったのが楊夫人の病気を治したことであるという。楊夫人は卵が好きらしく、戦争中には子どもたちは苦労して卵を求めたとも伝わる。かつては卵は貴重品で、日本でも病気になると鶏を飼っている農家から卵を分けてもらって来て食べさせたという話が近代の小説などにはよく出てくる。それはともかく鄭曼青が特に澄甫から「奥義」を学んだとされるその「奥義」とは如何なるものであったのか。それを知る手がかりとなるのは鄭曼青が編んだ簡易式(鄭子太極拳)の歩法にあったのである。

第五章 合気道奥義・山彦の道(15)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(15) あえて植芝盛平が「山彦の道」ということを言ったのは何故か。それは「逃げる」ことを主体とする合気道の本旨が忘れられることを直感的に懸念してのことではなかったであろうか。多くの合気道修業者は従来の武術と同じようなものとして合気道を捉えている。それはこうした合気道の特異な側面を盛平が宗教的な言辞をもってしか語り得なかったということも原因していよう。つま盛平の語った宗教的、神話的な部分こそが長く秘されて来た日本武術の「やわら」の核心部分であったのである。その継承が充分になされない合気道の歴史は誤謬の歴史であるといえるのかもしれない。

第五章 合気道奥義・山彦の道(14)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(14) 植芝盛平は晩年に至るまで囲みから脱する「山彦の道」の演武をしていたが、現在の演武会ではほとんど見ることができなくなっている。これは攻撃する方がなかなか安全に受けをとることができないということもあるであろうし、一見して武術的な意味が見出しにくいということもあるのかもしれない。しかし、思うにこうした「逃げる」ための稽古を無意識的に忌避する傾向があるのではないかとも思われる。合気道にあくまで攻撃のための「威力」を求めようとするとこうした稽古は必要のないものとなる。太極拳でも同様でむやみに推手で相手を突き飛ばそうとする。かつては、こうした特異な考え方をする武術は秘教とされて来た。それは多くの人に理解されないからである。

第五章 合気道奥義・山彦の道(13)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(13) 「山彦の道」については『植芝盛平と中世神道』で「同時」ということを日本神話から、また入身については八門遁甲などから説明をしている。そこで明らかになったのは「山彦の道」があくまで戦いを避ける、戦いから逃げるものであるということである。「山彦の道」を特徴的に知ることのできる練法に数人に囲まれた状態から脱出するというものがある。これは刀を持つ者と杖を持つ者が並んで囲みをつくり、一斉に中心にいる人物に攻撃を仕掛けるもので、中心に居る人物は囲んでいる多数の相手の一瞬の遅速を感得して(この部分が山彦に例えられる)、その乱れに活路を見出すことになる。私見によればこれこそが合気道の最終形態を示すものと考える。

第五章 合気道奥義・山彦の道(12)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(12) 「啐啄同時」が武術の理想的な間合いであるとして、それを実践しようとすると相打ちになるという理論的破綻を回避するために夕雲流では「相抜け」が考え出された。そうなると、例えば互いの拳は激突することがなくなる。ただこの場合、互いの拳は空を突くことになってしまい、「当たらなかった」のであるから客観的には攻防の場が成立していなかったことになってしまう。どうして 「 啐啄同時」は武術において生じないのか。それは天機の働きは生成において働くのであり、相手を打とうとした時に天機は働かないからである。ひな鳥を誕生させるという行為において天機は働くが、相手を打とうと考えた途端、その人は天機から外れることになってしまう。この意味において「相抜け」は互いに相手を打とうという意思が無く、空を打つような場面でしか働かないことになる。

第五章 合気道奥義・山彦の道(11)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(11) もし「 啐啄同時」を実践して相打ちになってしまうのでは武術的には意味がない。中島敦の『名人伝』では弓の名人が互いに矢を放つと、矢の先端が共に当たって勝負がつかないとする。もしこうしたことを徒手で行うとすれば拳が最高の攻撃レベルで激突することになる。そうなれば当然、互いに傷つくことになる。天の働きは生成にあり、人の本来は和合にあるとするのであれば、こうした互いに自滅するようなことを「啐啄同時」のあるべき姿として考えることはできない。攻防の中にある互いが共に生きることのできるところに 「 啐啄同時」の間合いを用いた武術としての意義が生まれることになる。

第五章 合気道奥義・山彦の道(10)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(10) 卵の殻が間にあるので「 啐啄同時」においてひな鳥と親鳥は相手を見ることはできない。そうであるのにお互いの行為が寸分の違いも無く「同時」に生じるのは、ひな鳥と親鳥が天機に準じているからである。およそ人間以外の動物は天機のままに動いている。そうであるから 「 啐啄同時」ということが生まれることになる。ひな鳥も、親鳥も卵の殻を突かなければならない必然性(天機)を感じてそれを行う。そこには迷いも悩みもない。これが禅でいう悟りの境地ということになろうが、ただ武術の場合であれば「同時」であると、相打ちになってしまう。

第五章 合気道奥義・山彦の道(9)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(9) 時に合気道の間合いは、禅の言葉である「 啐啄同時」をもって語られることがある。これは卵の中のひな鳥が生まれようとして卵の内側から殻を破ろうと突く(啐)と、親鳥も外から殻を突く(啄)、これが同時に行われて卵の硬い殻が破られる、ということである。こうした大きな転換が生じるのには、人の思い(思量)が介在したのでは不可能で、ただあるがままであれば良いとする教えである。もし、相手の行為に応じるのに「思量」が入れば、利害得失を考えてしまうことにもなろう。そうなるとその行為は自然なものではなくなり「機」を逸してしまう。そうなれば「啐」と「啄」とは「同時」に起こらず、殻が破れるという大転換(悟り)も生じないことになる。

第五章 合気道奥義・山彦の道(8)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(8) 植芝盛平はこの宇宙はすべて「和合」によって成り立っている。そうであるから「引力」というものが存している。これは万有引力が認めれていることからすれば首肯される考え方なのかもしれない。あらゆる物体には引力が有されている。こうした力は人の攻防においては呼吸によって働くようになる。これが植芝盛平の悟った「合気の働きとしての呼吸力」である。引力は反対の力である斥力を生むが、これを使えば投げ技へと展開できる。 大東流のような中心軸を攻める方法は引力を使うものではない。そうであるから合気道でいう「合気」は大東流の合気とは異なるものといわなければならない。ただ大東流でも「合気を使えば相手の手が離れなくなる」などということからすればここに「引力」が使われていると思われるが、確かにその一面はあろう。そうであるから植芝盛平は大東流から合気道を発見することができたのである。合気道では大東流の「合気」を「合気(理念)」と「呼吸力(技術)」に分けることでより理念的、思想的、宗教的な側面を伸ばすことに成功したのであった。

第五章 合気道奥義・山彦の道(7)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(7) よく「呼吸投げは知られているが、合気投げはどういったものなのか分からない」とする疑問を合気道を修する人は抱いている。「これが合気投げである」と称する技を示す人もいるが、一定したものではないようである。かつて植芝吉祥丸は「ごく少ない動きで相手を投げる」ものを合気投げとして著書で解説しているが、呼吸投げでも同様なことがあるので、その区別が明らかとはし難い。ここで述べたように合気道における「合気」は攻防を超えた宇宙の根本概念とも称すべきものであって、そうであるから合気投げというものは理論的には存しないことになる。攻防に使う「合気」の力はすべて呼吸力といわれなければならない。

第五章 合気道奥義・山彦の道(6)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(6) 合気道ではどうして「合気上げ」を「呼吸法」としたのか。大東流における「合気」はあくまで相手を崩す技術であって、攻防の方法をいうものであったが、合気道では攻防の力については「呼吸力」として「合気」をその上位概念と位置付けている。これは植芝盛平が「我即宇宙」を悟った神秘体験と関係していよう。この悟りの境地を「合気」として「宇宙と一体となる」ことが合気と見なされるようになったのである。そして攻防に働く力は呼吸力としたのであった。

第五章 合気道奥義・山彦の道(5)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(5) 通常、攻防の鍛錬は半身で相対するが、四正推手では正面で向き合って行う。これに対して四隅推手は半身で対することになる。つまり合気道の「呼吸法」も四正推手も同じく相手に正面から対する形になるのである。「呼吸法」は大東流では「合気上げ」と称される。合気上げは両腕を通して相手の中心軸を攻めるものである。これは中心軸への力の集中とすることもできるであろう。一方、「呼吸法」では左右に相手の力を流すことを主とする。相手の中心軸を取るには固く腕を捕らせる必要がある。太極拳のように触れているだけでは力の集中は難しい。つまり推手は相手の力を受け流す「化」や「走」を練ることを目的としていることが分かる。