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第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(17)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(17) 八卦拳の「変化」を考える場合に八宮拳というカテゴリーのあるのを知らなければならない。また太極拳には「長拳」というカテゴリーがある。これらは有効と思われる他の武術の動きを取り入れるためのカテゴリーである。現代になっては八卦拳は蟷螂拳と競うことがあったようで蟷螂拳に近い技が八宮拳には少なからず見ることができる。これは相手の動きを知って、それに対応するためである。高義盛の八卦掌では後天八卦六十四掌にいろいろな技が集められている。ただこれらと変架子とは全く違っている。変架子は常に変化をして定まることがない。太極拳の神明の境地も同様である。またこれをシャドーボクシングのようなものとするのもまちがっている。意拳の系統ではそうした練習法もあるようであるが、そうした練習法では一定の動きの範囲を出ることはできない。絵でも「自由に描いて良い」と言われて二、三枚なら違ったタッチの絵も描けるが、二百枚、三百枚となると「その人なりの描き方」になってしまうものである。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(16)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(16) 太極拳ではこうした学習過程を「覚勁」「トウ勁」「神明」としている。八卦拳では「定架子」「活架子」「変架子」である。太極拳でも八卦拳でも三段階の変化のあることを教えているが、太極拳では「覚勁」「トウ勁」として始めの二段階までは武術的な力の使い方である「勁」の変化であるとする。そして最後は「神明」としてこれが形の範囲を逸脱するものであるとする。一方、八卦拳ではあくまで套路を意味する「架子」が最後までついてくる。つまり套路そのものにこだわっているわけである。最後には基本となる定形の套路にこだわらないということでは太極拳も八卦拳も同じなのであるが、八卦拳では套路そのものも変えて構わないとしている。ただこうしたやり方はシステムそのものの崩壊の危機を招くことになりかねない。そこで変化という形(変化掌など)が生まれてしまうことになる。「変化」としての「定式」が固定してしまうのである。こうした危険を防ぐために太極拳や形意拳ではあえて套路の変化を重視する姿勢を取らず、自由な変化は実際の攻防においてなされるとしたのであった。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(15)

第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(15) 老子は「道の道とすべきは常の道にあらず」(第一章)と教えている。これは一般的に考えられている「道」が一旦は否定されて、その後に得られる「道」こそが本当の「道」であるということである。奥義を教える方途として一字訣が多く用いられたのは、それが「一字」に情報をフォーカスすることで否定を容易にし、更に新たな道を見出しやするするためであった。「柔」がその否定を経て「至柔」となることで本当の「柔」への悟りが得られることになる。「至柔」には柔の反対である剛が含まれている。こうしたことを太極拳では「綿中蔵針(綿の中に針を蔵する)」であるとか「曲中求直(曲の中に直を求める)」であるとする。「綿中蔵針」の「綿」は柔であり、「針」が剛である。太極拳の「柔」とは柔の中に剛を包み込んだものでなけらばならない。また「曲中求直」の「曲」は柔であり、「直」は剛となる。いうならば「曲中求直」は「柔」を否定する段階の教えで、「綿中蔵針」はあるあるべき「柔」を得た「至柔」を示しているとすることができるであろう。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(14)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(14) 「柔」字訣はある意味で「先入観」を作るためのものでもある。動きを習う過程で弟子は何らかのイメージを持つことであろう。そして「柔」字訣を知るとそれが「柔」であると理解する。しかし、この段階の「柔」は太極拳で求めている「柔」ではない。そうであるから弟子の先入観として持っている「柔」を師は徹底的に否定する。こうして時間を稼いでいる内に弟子は自ずから真の「柔」を体得することになる。これは反対に弟子を肯定的に扱ってして教えることもできる。「よくできている」と評して弟子が更に練習を続ければ真の「柔」を得ることができるかもしれない。大体において3年から6年くらい熱心に練習できる環境を師は提供すれば良い。そうすると弟子は自ずから太極拳の深い境地(神明)を得る。禅ではよく「底を抜く」という。底を抜かなければ水が満杯である桶に新しい水を入れることはできないと教える。つまり得るのではなく、捨てる(捨己)のが太極拳の修行であると気づくことが大切なのである。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(13)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(13) 実際に太極拳を習って、「柔」字訣を得たならば、その独特な柔らかさを知ることができるであろう。確かに字訣を知っていれば拳の核心部分の特徴を最も適切にとらえることができる。あるいは「柔」字訣を知らなければ動きの異なる楊家と呉家を同じ太極拳として認識できないかもしれないし、陳家の太極拳が、楊家や呉家などの太極拳と同じものであるように考えてしまうかもしれない。陳家と楊家が等しく太極拳と見なされるようになったのは、ひとつには楊露禅が陳長興から拳を学んだ史実による。ただ陳家溝ではただ「太極拳」だけが練習されていたわけではないようで、砲捶とされるものの他に一套から五套までの拳の伝承があったとされている。この中で太極拳は一套(頭套)に分類されたために頭套拳と称されることもあった。陳家の本流はあくまで砲捶で、太極拳もその理論によって改変された。それが現在の陳家太極拳である。普通に見れば陳家と楊家や呉家の太極拳の違いは明確である。それが見えなくなったのは歴史的な知識という先入観が邪魔をしているからである。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(12)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(12) これは植芝盛平が盛んに「禊」を言っていたこととも共通していよう。盛平は合気道を「小門(おど)の神業」であるとしていた。これは黄泉の国に行って穢れた伊邪那岐の命が禊を行ったのが筑紫の小門であったことをいうものである。こうした背景には本来、万物には穢はなく、人のみが欲望を持つことによって穢れた存在となっているとする考え方がある。つまり合気道を修することで行おうとしているのは本来の自分を取り戻すことに他ならないのであり、これを姜容樵の言い方を借りれば「天然の内功」を開くということになる。これは太極拳でも「鬆浄」の語があるように「鬆」とは「浄」でもあると考えており濁気は下り、清気は上るとされていた。この上る清気のことを「虚霊頂勁」と称する。ちなみに「虚霊頂勁」は「虚霊、勁を頂く」で虚霊が発動することで勁(ちから)が頭部まで達することを教えている。要は内功とされる勁(ちから)が全身にみなぎるということである。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(11)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(11) 鄭曼青は楊澄甫から「鬆であれ」と教えられて力を抜くと、「違う」と言われ、やや力を入れると、それも「違う」とされる、毎回この繰り返しで「どうして良いのか分からなくなった」と述べている。「鬆」はただ力を抜くだけではないし、少し力を入れるのでもない。心身の状態が太極拳が求める状態になったのが「鬆」なのである。これを体得するには套路を練って行くしかない。ひたすら套路を練ることで自ずから心身がある状態(鬆)となる。この時まで師はひたすら「違う」と言い続けることになる。「違う」と言われた弟子は力を入れたり、抜いたりしてみるのであるが、そうしている内にこのような努力がむだであることに気づく。この時に「捨己」が得られて、「鬆」が成るわけである。太極拳では「柔」や「鬆」は本来、心身に備わっているものとする。そうであるからそれを努力して得ることはできない。余計なものを除くことで自ずから開かれるのを待たなければならないのである。  

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(10)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(10) これに対して中国では一応、言語による表現が試みられた。ひとつにには「柔」であるとか「静」のような一字によるもので、これは特に字訣と称される。百字でも、たとえ千字を費やしたとしても真意は伝えられないのであるから、最小の一字をしてその方向性だけを示しておけば充分であると考えたためである。例えば太極拳には「柔」字訣があり、形意拳では「直」字訣、八卦拳には「巧」字訣が伝えられている。ただこの「柔」は一般的な「柔らかであること」をいうわけではない。「柔」字訣が示しているのは太極拳「独特」の柔らかさである。そうであるから一般的にイメージされる「柔」と実際の太極拳の「柔」とは必ずしも完全に一致するわけではない。また太極拳の「柔」は他に「鬆」であるとか「静」であると示されることもある。これらは等しく同じ感覚を表現している。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(9)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(9) これは武術に限ったことではないが、何かを正確に伝えようとするなら、それは容易なことではない。ましてや言語を介するのみで、複雑な除法や特異な体験の全てを伝えることは、ほぼ不可能であろう。しかし、一方では言語を介することがなければ、伝えようとすることの一端をも知らせることができなくなってしまう。日本の武術では大体において伝える努力を放棄して「口伝有り」などと記すことが多かった。または「金翅鳥王剣」(小野派一刀流)などと仏典にある伝説の鳥を技法名にしていたりすることもある。これも技術的にはこの名称と実際の技とはまったくといって良いほど関係がない。あるいは「斬釘截鉄(ざんていせってつ)」(新陰流)のような禅語が用いられることもある。ちなみに「斬釘截鉄」は煩悩などを断ち切ることをいう。とにかく相手の攻撃を断ち切るという意味があるのであろう。しかし、これも実際の技法と深いレベルで共鳴しているとはとてもいえない。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(8)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(8) 合気道は植芝盛平が「我即宇宙」「万有愛護」を感得して開いたとされる。そうであるから合気道では「合気」を「宇宙と一体となること」などと説くのである。また 植芝盛平は合気道で技を展開する上での こうした 「感覚」を伝えるために神道的な言葉を用いていた。これ は「合気」が日本人が本来持っている感覚であるとする考えであったともみられるかもしれない。こうしたことから合気会では外国人の修行者に配慮をして道場における神道的なものを取り除いた。しかし盛平の考える「神道」のベースには日本神道こそが世界の思想の根源を最もよく残したものとする国学以来の考え方があったように思われる。そうでなければ「万有愛護」と民族宗教である神道とは相いれないものとなろう。また盛平の感得した「我即宇宙」といった考え方は神道本来のものではない。神道というよりむしろインド的な 梵我一如に近いものであろう。おもしろいことに盛平がこれを感得した時、自身の体が黄金体と化したとしている。黄金体は仏像と同じである。かつて植芝吉祥丸はカッパブックスの『合気道入門』で黄金体化の体験がウパニシャッドに記されていることに酷似していることを指摘していた。これも盛平の体験が神道ではなく梵我一如のインドのそれに等しいものであることを暗示していよう。ただ大宇宙と小宇宙(自分)との一体化や光の体験はあらゆる神秘体験に共通するものでもある。その意味で盛平の体験は民族宗教としての神道の枠組みを超えた普遍的な境地に入っていたとすることができよう。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(7)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(7) 八卦拳の「纏綿掌」は合気道における「むすび」と同じであるとすることができる。植芝盛平は「むすび」の働きを「舞い上がり、舞い下がる」働き、つまり螺旋の動きとしている。これは合気道の守護神とされる天の叢雲九鬼さむはら龍王によって「龍」として象徴されてもいる。また八卦拳ではよく「龍」身がいわれるが、それとも共通するイメージであろう。鄭曼青は太極拳の「変化」の感覚を「トウ(皿の上に湯)」と教えている。これは「揺らぎ」のイメージを伝えるもので、大風に蓮の葉がくねるように揺れるイメージが太極拳の変化の鍵であるとする。植芝盛平は弟子に自由に攻撃をさせて右に左にとそれを投げて「このように自然と一体となって(合気道を)行う」と教え、メモなどを取ることを禁じていた。これは「変化」を教えようとしていたためである。つまり盛平の目指していた合気道は「変化」のレベルにあったわけである。  

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(6)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(6) 「変化」は一定の動きをもって伝えることはできない。それはある種の「感覚」によらなければならない。八卦拳では「変化」は気機によると教えている。天地陰陽の気の動きの変化を感じて動くとするわけである。これは自由な動きで一定の形はない。この気機を捉える感覚を伝えるのが八卦拳における定架子、活架子の修練となる。八卦拳の気機を知る手掛かりとなるのは八卦拳の最高レベルとされる「纏綿掌」である。これも形のないもので、「纏」は螺旋の動きであり、「綿」は柔らかな動きをいう。これはまた形意拳の「滾」と同じである。形意拳において「滾」が主体となる過程で八卦掌が導入されたのであった。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(5)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(5) およそ中国では「変化」が重視された「易」は「変化」という意味であるし、「革命」を経て政権を得ることは天より信任を得た証とされていた。つまり「変化」をしなければ適切な状態を招くことはできないとする考えが古来から広くあったわけである。ちなみに五行説も相生、相克の「変化」の関係を説いている。八卦掌は「変化」の套路である。そうであるから一定の形を持たないことこそが八卦掌なのである。広く流布している八卦掌は大体が形意拳の系統に属している。そうであるから形意拳に母拳と砲捶の部分を負っている。形意拳の三才式と八卦拳の乾坤式は共に半身の構えで共通している。こうしたことが形意拳と八卦掌を結び付け、形意拳には明確でなかった「変化」のシステムとして八卦掌が取り入れられていくことになるのである。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(4)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(4) 八卦拳では既に触れたように八母掌を「母拳」として、羅漢拳を「砲捶」としている。これを八卦拳の定架子、活架子、変架子でいうなら、八母掌は定架子となり、羅漢拳は活架子である。変架子は八掌拳(八卦掌)とすることができる。つまり八卦掌は本来が「変」の架子であり、套路が一定しないという現象の生ずることは八卦拳の構造的なあり方として当然のことなのである。八卦拳において八卦掌は八掌拳ともいわれるようにその名称も一定していない。つまり八掌拳と称する場合は羅漢拳の系統の表現となり、八卦掌とする場合には八母掌の系統の表現となるのである。実際、八掌拳は直線を運動線とするが、八卦掌では円を運動線とする。八卦掌が流布したのはそれが自在に変化をするシステムであったためでもある。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(3)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(3) 死套路と活套路といった基本と応用で学習過程が構成されているのは少林拳でも太極拳、形意拳、八卦拳でも共通しているが、太極拳以下の俗に「内家(拳)」とされる武術と、少林拳などの「外家(拳)」とで大きく違っているところといえば、そこに技術的なものとは別に内的な伝授がともなうところであろう。これは身体を鍛えたり、攻防の技術を習得したりする外功に対して内功と称される。内功をイメージさせる語としては「柔」であるとか「静」などがあげられよう。これらの語はまた太極拳などの秘訣(拳訣)でもある。形意拳の姜容樵は内的な武術において習得される「内功」を「天然の内功」であるとしていた。これは内功なるものは人が誰でも本来的に持っているものであることを意味している。身体を鍛えたり、技術を覚えたりすることは自分の持っていないものを得るのであるが、内功の会得とは生まれながらにして誰でも持っているものを開く作業に過ぎないとするわけである。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(2)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(2) これはひとつには八卦拳の持つ構造に原因がある。八卦拳には定架子、活架子、変架子があり、通常の武術に見ることのできる死(定)套路と活套路に変架子(変套路)が加えられている。この「変」こそが八卦拳(八卦掌)の核心であり、「変」こそが八卦の動きの「根幹となる部分」なのである。ここに八卦拳の分かりにくさがある。ちなみに死(定)套路は基本であり、これを「母拳」と称することもある。一方、活套路は応用でいわゆる実戦に用いられる動きとなる。これは「砲捶」と称される。八卦拳では八母掌と砲捶として羅漢拳がある。

第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(1)

  第二章  感覚の伝授 としての八卦拳・変架子と八卦掌(1) 八卦拳を受け継ぐ八卦掌の各派ではその套路に著しい違いがある。もちろん太極拳でも動画サイトにあがっている演武を見ると同じ楊家の太極拳であっても「同じものとは思えない」ほどの違いを感じることがあるであろう。ただ太極拳にある程度、習熟すれば動きの根幹となる部分を体得できるので、それをベースにして見たならば、楊家はやはり楊家であり、呉家は呉家としての「範疇」にあることが分かる。一方、八卦掌の場合はそうした動きの「根幹となる部分」が見えてこない。そうしたこともあって八卦掌の「真伝」は中国武術の中でも特に得にくいものとされている。

外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(7)

  外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(7) 中世神道の「霊視」者たちは、その「霊視」から得た「情報」を『古事記』や『日本書紀』の神話をもって語った。それは古代の神話そのものが太古の「霊視」者によって得られた「情報」によっていたからである。太古の「霊視」者はおそらくは祭祀によって霊的な世界を覗くことができたのであろう。しかし中世あたりになると特定の瞑想法を用いなければ、深い霊的な世界に入ることができなくなっていた。植芝盛平は先天的に霊視ができたようであるが、それは出口王仁三郎などとの出会いを通してさらに磨かれて行ったのである。太古から中世、現代の「霊視」者たちの見た世界には共通性があった。それは「日本文化」の深層にあるもので、これを国学では古道と称した。鈴乃屋の主人(うし)本居宣長は鈴の音によって瞑想状態に入って太古の「霊視」者の観た世界を知ろうとしたし、平田篤胤は久延彦(くえびこ)の伝とする瞑想法を考案しようとしていた。久延彦については「歩くことはないが、すべてを知っている」と神話にある。これはまさに瞑想そのものではなかろうか。

外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(6)

  外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(6) 山王神道は天台宗の止観から生まれたものであることは既に述べたが、天台宗といえば比叡山であり、比叡山といれば古代、中世は僧兵で有名であった。その勢力は強大でしばしば朝廷をも脅かした。しかし、興味深いことに僧兵がどのような武術を使っていたのかは明らかではない。それは技術ではなく内的なもの、霊的なものにその根源があったからではなかろうか。間合い、呼吸を巧みに使うような体系ではなかったか。そうした内実は、山王神道を植芝盛平の「霊視」した世界を通して紐解くことで知ることができる。合気道では呼吸投げに象徴されるように「呼吸」が重視されている。この「呼吸」こそが僧兵の使った武術の根本ではなかったかと思われるのである。

外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(5)

  外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(5) 山王神道のベースにあるのは天台止観である。止観そのものはやや中国化したところはあるが基本的な仏教瞑想法であるとすることができる。止観を解説した文献には『天台小止観』と『摩訶止観』がある。「小止観」はテクニックを主として説いており、これは仏教瞑想としてかなり一般的なものである。「摩訶止観」の方は 天台宗によせてどのように瞑想を進めるかについて詳しく記されている。ここではただ「空」を追究するだけではなく「仮」の世界の存することを認めている。俗世もそれが存在するものとして一定の価値を認めるのであり、それを通して「空」を悟ることが可能とする。釈迦も死や老い、病気などの俗世の姿を見て悟りを得たわけである。世間の諸事象の裏に隠された真実、これはオカルト探究の基本でもある。こうした世界に山王神道は入り込んで行くことになる。

外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(4)

  外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(4) 両部神道のベースになったのは真言宗の瞑想法である月輪観や阿字観である。これらは基本的には同じ瞑想法で、イメージを使っている。月輪のイメージ化に習熟して来たら、その中に梵字の「ア」をイメージする。このプロセスは霊的な視覚を開いた後に霊的な「聴覚」を開くものとなる。これは求聞持法を成就した時、空海が明星を観て、谷の響きを聞いたとされるのと同じである。個人的には阿字観より月輪観の方を好むが、いろいろな密教の秘法も、呪術的な迷信ではなく心身の調整を行うための瞑想法という観点から考えればすべては阿字観に集約されるように思われる。

外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(3)

  外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(3) 両部神道で基本となるのは真言宗の瞑想法である月輪観と阿字観である。一方、山王神道では天台宗の止観を基本とする。こうした瞑想法はひとつの技術であるので、瞑想の技術によって心の深い領域に達した時、それは必ずしも真言宗や天台宗の教義が意図した「地点」に到達するとは限らない。そのため事相(行法)と教相(教義)とが共に修されることを重視する。例えば瞑想をしていて教義と違うことが心に浮かんでもそれは「雑念」として捨ててしまうことを必然とする枠組みを始めに作っておくのである。しかし中世の「神道」を修する人の中にはあえて教義からの逸脱を否定しない人たちが居り、そうした人たちが「両部神道」や「山王神道」を形作って行った。そうであるから「中世神道」は神道の研究者からは「神道を逸脱している」とされ、仏教の研究者からは「仏教を逸脱している」とみなされて価値のないものと考えられることが多かったのである。いうならば「異端」とすることもできるであろう。こうした「異端」者の好奇心は止まることを知らず、果敢に伊勢の神宮の深秘であり天皇王権の核心である心御柱(しんのみはしら)を盛んに「霊視」しようとした。彼らはそれを知って何かをしようというのではないが、彼らの知的好奇心はさほどに旺盛であったのである。

外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(2)

  外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(2) 『植芝盛平と中世神道』で紹介しているのは両部神道と山王神道、それに十種の神宝である。両部神道は真言宗の系統で、山王神道は天台宗の系統に属している。また十種の神宝は両部でも山王でも触れられ、後には垂加神道などでも重視された。また今日でも「古神道」では必ずといって良いほど十種の神宝の価値が語られるが、その真義はいまだ明らかにされていないようである。十種の神宝はただ図が示されているだけであるので , そこにどのような意味があるのかが知られることが少なかった。十種の神宝は その図を適切に解くことができなければ、その蘊奥を知ることはできない。そうであるから図の正しいテキストを得る必要がある。そうした正しい図によることで、世に流布しているいろいろな「十種の神宝」の変化の意味をも知ることも可能となる。およそ「真伝」とはそうしたもので、八卦掌でも八卦拳の体系を知ることで「各派によってまちまち」とされる套路もその系統を知ることができるようになる。

外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(1)

  外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(1) この度、新著の『植芝盛平と中世神道』が上梓されることとなった。同書の原稿は二年前に「中世神道の瞑想世界」(仮題)として脱稿していたのであるが、昨年の校正原稿の段階で大幅に書き直して、植芝盛平と中世神道の瞑想世界との関係を論ずるものとした。当初は今回、一般にはほとんど知られていない中世神道の「瞑想世界」を紹介し、次著で日本柔術史の最後に登場した合気道との関連を植芝盛平の霊視した世界をベースに論じようと考えていたが、「霊視」という方法に依って中世の神道者が感得したことと、植芝盛平が見たものとがひじょうに重なるので、それを先に紹介した方がかえって中世神道の「価値」も理解されるのではないかと考えたわけである。一般に中世神道は仏教などの思想的影響を受けて自己の思うがままに「妄想」を語っているに過ぎないとされるが、そこで「霊視」されていることには普遍性があり、それを知ることで心身を高度なレベルで調整することができる。そうしたことが一方に「中世神道」を置き、もう一方に「植芝盛平」を据えることで明確になるのではないかと考えたわけである。

第一章 塩田剛三と金魚(20)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (20) 塩田剛三が金魚の動きを見て合気道の身法の奥義を悟ったことは冒頭でも触れたが、「魚」の動きに奥義を見るということでは太極拳の双魚図を想起しないではおれない。おそらく塩田が見たのも太極拳の双魚図と同じシンボルであったのではなかろうか。金魚鉢の淵を叩いた時に金魚の反応する「機」と全身が協調して動く姿、そうしたものを塩田は金魚から見出したのであり、太極双魚図を奥義を表すシンボルと感得した人物も同様にそこにそうした自然の「妙」を見たのであろう。自然の全ては「師」であるとする教えもあるが、やはりそれを技術として表現しようとするのであれば一定の傾向、偏りを持つことは仕方のないことである。そうした中で合気道と太極拳は「魚」という共通のシンボルを持っている。それはどうしても「魚」でなければ表すことのできないものが存していたということなのである。

第一章 塩田剛三と金魚(19)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (19) また塩田は植芝道場を訪ねた時に「やってみないか」と盛平に誘われ、「柔術の先生なら蹴りには対応できないであろう」と思って蹴っていったが簡単に投げられて、入門を決意したという。同様に盛平も出口王仁三郎と大陸に渡って、モンゴル人の兵隊を訓練する時、逆手技を使ったという。モンゴル人の兵隊は蒙古相撲などで鍛えていた人が多くとても容易に投げたりすることはできない。そこで相手の経験のない逆手を用いてその優位性を示したわけである。更にいうなら太極拳の陳微明は楊澄甫のところに初めて行って推手をした時に蹴りを出したところ古参の弟子は皆それを避けることができなかったが澄甫のみはよくかわしたと述べている。一般的に推手では蹴りは用いないが、それを禁じてもいない。推手が「推手」の稽古だけで完結して太極拳全般に及んでいないために突然の蹴りに対応できないわけである。それは盛平も同様で優れた「武道勘」を持っている故なのである。そうしたところを塩田も感じて盛平へ入門することにしたと思われる。

第一章 塩田剛三と金魚(18)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (18) 硬打とは半身ならほぼその姿勢のままで力を発するもので、大きく「打つ」という動作をすることはない。その力を生み出す方法に膝と肩甲骨の使い方があるわけで、これを塩田剛三は独自に発見をしていたのである。どうして塩田はこうした武道史からすれば数百年を飛び越えるようなことを見出し得たのか。それは「武道勘」が良いからである。こう言うと身もふたもないことになるが、この「勘」は得ようとして得られるものではない。天性のものである。塩田のパフォーマンスとしてよく知られているのはロバート・ケネディの護衛官を取り押さえたというエピソードであろう。小柄な塩田が屈強なボディーガードを抑えたことはケネディの回想録にも記されている。この時、塩田は相手に正座をするように求めた。この時点で勝負はきまっていたのである。

第一章 塩田剛三と金魚(17)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (17) 合気道の当身については井上鑑昭が「こんにゃくで鉄板を叩き割る」と教えていたようである。空手の江上茂はこれに深く共感して「柔らかな空手」を模索するようになる。ただこの方向は太極拳でいうなら陳家の身法に近いものである。通臂拳なども同様な身法を使う。一方、楊家などの太極拳や形意拳、八卦掌などでは硬打という身法を用いる。硬打では、ものを放り投げるような動きはとらない。陳家のような打ち方が主として肩甲骨の柔らかさを使うのに対して楊家などの硬打では肩甲骨と膝の抜けを使うところに違いがある。塩田剛三はこうした当身を独自に会得していたようで臂力の養成として伝えられた方法もそれを当身というところから見るならば膝の使い方の秘訣を込めているものであることが分かる。

第一章 塩田剛三と金魚(16)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (16) 塩田剛三は、金魚鉢を叩いて金魚が瞬時に方向を変える身法を研究していたという。こ の時、金魚は全身を働かせて瞬時に体の方向を変えることを塩田は見出したのであった。このような身法を太極拳では上下相随と称する。盛平が晩年に言い出した心身統一も塩田が金魚に見たのと同じ身法であろうと思われる。そうであるなら心身統一はどのようにすれば可能となるのか。それは「臂力」の養成にあることをも塩田は見抜いている。「臂力」の使い方の秘訣を太極拳では含胸抜背で伝えている。要するに肩甲骨を柔らかく使うことで全身の協調した力を生み出すことができるということである。含胸抜背は発勁の時の秘訣で、これは投手が球を投げた時の姿勢でもある。しかし太極拳では往々にして、これを通常の姿勢を教えるものとして猫背のような脱力を良しとする傾向があるが、それでは実際に力を発することはできない。含胸抜背も広くとらえれば通臂功の範疇に含まれるものである。

第一章 塩田剛三と金魚(15)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (15) 合気道の合気は日本で涵養された「柔(やわら)」の伝統を受け継いだものであった。ただ近世においても「相気(合気)」は相手と呼吸(気)を合わせることとして理解されていたが、それでは攻防において相手の動きの調子に合わせることになり相手に動きをリードされる要因となる。そのために「相気」はこれを避けることが近世においては専ら求められたのであった。こうした「相気」を「柔」の伝統の中で相手の心身の動きと一体となることで、かえって優位に立つことのできる方法として大東流では見出していた。これは意識の「ズレ」を用いるもので、相手の予想するよりも少し速く動くことで相手を導くことが可能であることを「合気」として見出したのである。このもっとも重要な練習法が座り技での合気上げ(合気道では呼吸法)であるが、これと同様の稽古は太極拳では推手として練習されている。ただ相手の手に触れる推手よりも、掴まれるという場面での合気上げの稽古の方がより繊細な感覚を容易に育てられると思われる。

第一章 塩田剛三と金魚(14)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (14) 合気道において神道はあいまいな「位置」にあったが、戦後に神道的なものが否定的に受け取られるようになると植芝盛平は次第に神道的な言い方から「心身統一」などの方にシフトして行くような傾向も見せていた。合気道の根本に「心身統一」のあることを強調したのが藤平光一である。また塩田剛三は本来、神道には興味を持っておらず内弟子時代の神拝もただその場に居ただけというくらいであったらしいこともあって、合気道のベースにあるものを「臂力」としてとらえて行くことになる。「心身統一」は太極拳でいうならば上下相随であり、全力法でもある。一方、「臂力」は通臂(背)功ということになろう。盛平が呼吸力として曖昧に提示していたことが多少なりとも具体的に提示されることとなったわけである。植芝盛平は「合気道は当身な七分」とも教えていたが、それを実現しようとするのであれば「心身統一」や「臂力」の養成がなければとてもできるものではない。こ合気道の武術的な展開の七割が当身であるとする教えは、一般的な合気道の稽古からすれば奇異な感じを受けることであろう。実際のところ通常の稽古で当身の練習がなされることはほぼ無いからである。