第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(12)

 第二章 感覚の伝授としての八卦拳・変架子と八卦掌(12)

これは植芝盛平が盛んに「禊」を言っていたこととも共通していよう。盛平は合気道を「小門(おど)の神業」であるとしていた。これは黄泉の国に行って穢れた伊邪那岐の命が禊を行ったのが筑紫の小門であったことをいうものである。こうした背景には本来、万物には穢はなく、人のみが欲望を持つことによって穢れた存在となっているとする考え方がある。つまり合気道を修することで行おうとしているのは本来の自分を取り戻すことに他ならないのであり、これを姜容樵の言い方を借りれば「天然の内功」を開くということになる。これは太極拳でも「鬆浄」の語があるように「鬆」とは「浄」でもあると考えており濁気は下り、清気は上るとされていた。この上る清気のことを「虚霊頂勁」と称する。ちなみに「虚霊頂勁」は「虚霊、勁を頂く」で虚霊が発動することで勁(ちから)が頭部まで達することを教えている。要は内功とされる勁(ちから)が全身にみなぎるということである。

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