外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(3)

 外伝3新著『植芝盛平と中世神道』について(3)

両部神道で基本となるのは真言宗の瞑想法である月輪観と阿字観である。一方、山王神道では天台宗の止観を基本とする。こうした瞑想法はひとつの技術であるので、瞑想の技術によって心の深い領域に達した時、それは必ずしも真言宗や天台宗の教義が意図した「地点」に到達するとは限らない。そのため事相(行法)と教相(教義)とが共に修されることを重視する。例えば瞑想をしていて教義と違うことが心に浮かんでもそれは「雑念」として捨ててしまうことを必然とする枠組みを始めに作っておくのである。しかし中世の「神道」を修する人の中にはあえて教義からの逸脱を否定しない人たちが居り、そうした人たちが「両部神道」や「山王神道」を形作って行った。そうであるから「中世神道」は神道の研究者からは「神道を逸脱している」とされ、仏教の研究者からは「仏教を逸脱している」とみなされて価値のないものと考えられることが多かったのである。いうならば「異端」とすることもできるであろう。こうした「異端」者の好奇心は止まることを知らず、果敢に伊勢の神宮の深秘であり天皇王権の核心である心御柱(しんのみはしら)を盛んに「霊視」しようとした。彼らはそれを知って何かをしようというのではないが、彼らの知的好奇心はさほどに旺盛であったのである。

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