投稿

12月, 2020の投稿を表示しています

第一章 塩田剛三と金魚(13)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (13) 近世あたりに確立されつつあった坐禅の「静功」としての位置付けは「外功」としての技の修練と合わせてかなり理想的な体系であり好ましいものであったと考えるが、「内功」としての坐禅はあやふやな「位置」にあり、近代以降に「国家神道」政策がとられるようになるとこれもなんとなく精神的な部分の鍛錬として神道が禅を代替し得るものと見なされ、「鎮魂」や「禊」などのいろいろな行法が合気道では取り入れられた。伝説上の始めの天皇が「神武」であることから戦中あたりは日本の武道は「神武」であるとして神道と密接なかかわりがあるように説かれることもあった(実際の「神武」の「神」が神のように偉大であるという意味であって神道とは関係はない)。

第一章 塩田剛三と金魚(12)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (12) ただ「神道思想」とは何かということはその範囲や内容を示すことは難しい。それはある時は『古事記』に記された思想をもって語られ、あるいは国学者の唱えた復古神道や近代あたりの教派神道の教えをして理解されたりもしている。他には民俗信仰などが神道と解されることもある。『古事記』や『日本書紀』は本来が歴史書であって神道の教義書ではない。また復古神道や儒家神道などは特定の思想を背景として「神道説」を展開したものである。また大本教のような教派神道は「開祖」とされる人物の思想によっている。近代になって「神道」としてコンセンサスの得られたイメージが日本独自の精神世界を表すものと見なされるようになると、川面凡児に代表されるような「修養」が盛んに行われるようになった。こうした風潮を受けて植芝盛平も神道的な「修養」法を取り入れることになる。天の鳥舟(舟漕ぎ運動)や魂振などは川面の教えたことそのものである。

第一章 塩田剛三と金魚(11)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (11) 攻防を行えば必ず負ける。生涯不敗であったとする「伝説」が例え真実であったとしてもそれは単なる偶然に過ぎないことであろう。こうした武術の技の「限界」を越えようとして坐禅や呪術が試みられて来た。近世あたりから武術の技を越えるものとして、そのとらわれからの解放を期するものとして禅が修されるようになった。しかし武道の伝書を見ても呪術が記されることはあっても禅がその教学大系に組み込まれることはなかったのである。つまり坐禅は武術の技の修練としての「動功」に対する「静功」といして位置付けられることはなかったのである。植芝盛平の神道的な行法も合気道の修練とどのような関係にあるのかが明示されることはない。確かに盛平は「禊」や「天の御中主の神」「荒魂」など神道的な用語をして自らの会得した境地について語っているが、そのれが神道の思想を受けたものかというとそうでもない。

第一章 塩田剛三と金魚(10)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (10) 一方「宗教」的な部分については植芝盛平と大本教との関係が知られている。ただ、それは教義によるものではなく、出口王仁三郎と出会うことで、武術的な力が開いたと思える体験があったために「大本教」へと傾倒して行ったのである。実際は内的な力を開いてくれる師として王仁三郎を慕っていたということができよう。子息の吉祥丸によれば盛平は霊能者が居ればすぐに行って教えを受けていたらしい。そしてそれは家計が苦しい時も変わることがなく母親には苦労を掛けていたと語っていた。また紙を咥えてろうそくの炎を見つめるなどの行法を実践したりすることもあったらしい。盛平は神秘的な力を得ることにかなり深い関心を持っていたようである。

第一章 塩田剛三と金魚(9)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (9) 盛平は大東流の中に認めたと考えられる草薙剣に象徴されるような封じられた力とはどのようなものであったのであろうか。 合気道における「武術」的な部分は大東流で代表される。盛平自身は大東流をかなり深いところまで学んでいたはずであるが合気道で採られているのは比較的初歩の技のみである。これについては大東流が広く知られるようになると少なからず合気道を稽古している人たちの注意をひくこととなった。また大東流サイドからは「合気道は大東流の 初心の手しかない」などと言われることもあった。しかし、盛平が大東流の比較的簡単な技をのみを合気道に採ったのは、ひとつには合気道を単なる攻防の武術ではなく心身を浄化するためのエクササイズとして確立しようとしたこと、もうひとつは複雑な逆手技は実戦に適さないと考えていたこともあるようである。そうしたこともあって盛平は合気道は実戦にあっては「当身が七分」としていたのである。

第一章 塩田剛三と金魚(8)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (8) 植芝盛平は合気道を草薙剣の発動であるとしていた。草薙剣は熱田神宮に封印された。その働きが再び合気道として現われ出たのが合気道であると考えていた。こうした封じられた「霊的な力」を開放することは大本教で見られる考え方である。出口王仁三郎は大本教には「型」が出ると教えていた。根源的、原理的なパターンが象徴的に大本教において現れるというのである。「封じられた霊的な力」が大本教において開放されたのであれば、それは武術界においても当然生じなければならない。出雲にあった草薙剣は高天原に封じられたと神話にある。しかし後に倭建(やまとたける)の頃になるとなぜか熱田神宮に封じられていた。これは大和朝廷が出雲から草薙剣を奪って熱田神宮に封じたことを「高天原」へ移したとしていたためである。その力は戦争に日本が負けることで大和朝廷を受け継ぐ天皇家の封印が解かれることになった。そこに草薙剣の発動としての合気道が自ずから世に出て来たのであり、盛平はその働きを助けたのみと自身も考えていたので自らの働きを猿田彦としていたわけである。

第一章 塩田剛三と金魚(7)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (7) このように中国において禅は武術とは直接の関係を持つことはなかった。一方で内功としてのトウ功は太古の導引からの伝統を引き継ぐものであった。等しく儒教の静坐も同様である。トウ功のトウとは「杙(くい)」のことである。杙が立っているように動かないでいるのがトウ功である。静坐もこれと同じくただ動かないで坐ることを専らとする。実は禅宗の坐禅もこのトウ功の影響を受けて中国化した仏教瞑想なのであるから、武術のトウ功と坐禅は古代の導引を受け継いで共に近しい関係にあるということになる。おそらく太古の導引においては瞑想も運動も未分化であり融合していたのではなかろうか。それが後代に瞑想と運動に分かれ、瞑想は仏教に入って坐禅を生み、儒教に入って静坐となり、道教では心斎、坐忘などとなった。一方、運動の部分は八段錦や五禽戯などの健康法となり、また武術として展開をして行ったものと思われる。やや武術的な方面に偏っているが太極拳などは古代の導引に近い瞑想的な要素を多分に有するものである。

第一章 塩田剛三と金魚(6)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (6) つまり達磨により禅がもたらされたことで太古の導引が内的なものと外的なものに分かれることとなった、そうした歴史的な事実を象徴するところとして「少林寺」があったのではないかと考えられる。伝説の少林寺の拳として「少林五拳」の伝承があったとのもそうしたイメージによるものであろう。少林五拳は龍拳、虎拳、豹拳、蛇拳、鶴拳であるとされている。これを作ったのは元代の人である白玉峰で、白玉峰は人の体は「精、力、気、骨、神」によって構成されているとし、それらを鍛練するためのエクササイズが五拳であったのである。つまり龍拳は神を練るもので、虎拳は骨、豹拳は力、蛇拳は気、鶴拳は精を練るとする。またこれらは五禽戯をベースに白玉峰の習得していた洪拳のエッセンスを加えて考案されたものであるともいう。ただ五禽戯は「虎、鹿、熊、猿、鳥」の動きから出来ていて、五拳とは内容を異にしている、というより「虎」以外に同じものはない。また五禽戯がすべて実在の動物であるのは興味深いところであろう。   五拳のような動物の動きから生まれた武術を象形拳と称する。朽木寒三の『馬賊戦記』には五禽戯が武術として練られていたことを伝えている。五拳の内容を見ても龍拳は神を練るものであったし、他の拳も骨、力、気、精を練るものとあった。こうしたことからすれば五拳もまた導引的な側面を深く有していたということが分かる。そうした中で特に武術的な部分を発展、特化したのが五拳ということになるのであろう。古代の導引がさらに健康、宗教、武術などに適するよう改良、特化されて行く過程において、健康法や修行法、武術などに分化して行ったと考えられるのである。つまり「少林寺」として象徴的に示されているのは、インドから高度な瞑想法である禅が渡来することによって、太古から伝わった導引から高度な武術が生み出されたということであると考えらえるのである。  

第一章 塩田剛三と金魚(5)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (5) つまり少林寺においては拳禅一如のような考え方は見られないのである。中国では禅や武術に先行するものとして導引があった。華佗(3世紀)の五禽戯は有名であるし、古くは馬王堆古墓(紀元前2世紀)の導引図もある。導引は不老長寿を目的とした運動であるが、そこには心と体の養生という考え方があったと思われ、すでにこうした段階で後に見られる内功、外功的なものがあったと見なすことも可能なのではなかろうか。 この導引という見地から中国武術の流れを見るならば、古代には内的なものと外的なものが融合していた導引があったのであるが、インド方面から仏教を通して禅が入ってくると、内的な方向でのエクササイズは禅の中に吸収、融合され仏教、儒教、道教でそれぞれで瞑想法が生み出された。また、外的なエクササイズは体操や武術として発展して行ったとすることができるのではなかろうか。

第一章 塩田剛三と金魚(4)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (4) しかし、武道において禅が残された技を通して流祖の体験したことを再体験しようとするものとして、そのエクササイズの方法が具体的に構築、明示されることはなかった。教授階梯としては華道でも茶道でももっぱら「術」のみが授けられた。こうなると「禅」の実質的な意義は薄いものとなってしまう。一方、中国では武術の発祥地として少林寺が語られる。少林寺は達磨が禅を伝えた寺であるが、意外にも禅と武術の関連をいわれることは皆無と言って良い。少林寺の武術は武僧とされる人たちが専ら修したとされ、高度な禅の修行を行う僧侶とは別な存在として扱われている。近代になって達磨が伝えたものの中に禅(瞑想)の他に武術の基礎となるようなものが含まれていたとする「伝説」が語られるようになったが、そこでもやはり武術は禅とは別のものとされていた。

第一章 塩田剛三と金魚(3)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (3) およそ日本の文化において立花でも、喫茶でもそれが「道」となる時には「禅」的なものがなければならなかった。「禅」には教外別伝の語があるように仏教の経典に記されている「教」にとらわれないとする立場がある。そうであるなら教外別伝は何によるのかといえば「体験」によっている。釈迦が教えたことではなく、釈迦が体験したこと(坐禅)を行うことで悟りを再体験することができると考えるのが禅宗である。こうした体験による「知」を重視する考え方が「道」を付するエクササイズの誕生を促したのであった。つまり「武道」にあっては本来的は「禅」という方法を通して流祖が残した「技」が生まれる過程を再体験する、奥義の技が生み出された瞬間にもどってそれを体験しようとする。そうした試みであるべきが本来の姿でなければならないのであった。

第一章 塩田剛三と金魚(2)

  第一 章  塩田剛三と金魚 (2) 植芝盛平は神道的な神秘思想にかなり深く傾倒していたが、武術と神秘思想との関係は何も合気道に限ったことではない。およそ日本の武「術」が武「道」と見なされるようになった時から、武道には多少なりとも神秘思想的な側面を有することとなったのである。武「道」でいわれるのは「術」から「道」への飛躍であろう。そこには「武道は武術を越えるもの」とする認識がある。なにが「武術」を越えるものとして存しているのか。それが「道」であり、「道」は多分に神秘思想的なニュアンスを持つものとしてとらえられている。そうした神秘思想的な部分を担うものとしては「禅」があった。

第一章 塩田剛三と金魚(1)

  両儀老人武学論集 第一 章  塩田剛三と金魚 (1) 植芝盛平の開いた合気道には三つの側面があった。それは武術としての側面と、神秘思想としての側面、それに健康法であった。戦前は武術(大東流)から思想(合気道)へとする展開を見せていたが、戦後は健康法としての側面を強調することもあり「合気道は大なる健康法である」というようなことも言っている。こうした経緯が示しているのは武術的なものが大東流から離脱する時に捨てられ、思想的(神道的)なものは戦後にそうしたものが否定される社会風潮のあることを受けて、「武産合気」としての新たな道が模索される過程で次第に声が小さくなって健康法なるものも示されるようになったと解することができよう。これは盛平自身が身体の不調を長きにわたって抱えていたことや二木謙三、西勝造や桜沢如一などと「健康法」を提唱する人たちと関係があったことなどが影響して健康法というところに思い至ったのかもしれない。ただこうした側面は大きく発展させられることはなかく、合気道を習いに来る「弟子」たちはあくまで武術としての合気道を求めていた。

外伝2太古導引と太極拳簡易式(4)

  外伝2太古導引と太極拳簡易式(4) そうしたところに「鳥申、熊経」の導引が考案される背景であったと思われる。「鳥申」は太極拳の腿法のエッセンスであり、これにより蹴りと歩法が生み出される。膝を上げて足を伸ばすのが重要でこれによって歩法がそのまま蹴り技となる。一方「熊経」は身法、手法のエッセンスである。太極拳の手法は身法によるのが本来と考える。そうであるから簡易式ではできるだけ手だけの働きを少なくしている。打虎などは優れた技であるが手の動きが大きいので簡易式では採られていない。本来、「簡」「易」はエッセンスを表す語であった。鄭曼青の簡易式はただ長い套路を短くしたというだけではなく、太極拳の歴史の中で見えなくなってしまった太古の秘教の復活ということもその視野に入っていたのである。

外伝2太古導引と太極拳簡易式(3)

  外伝2太古導引と太極拳簡易式(3) 鄭曼青は鳥申、熊経の導引を伝えていた。鳥伸は足を交互に前に伸ばす動きで、熊経は腕を左右に開いて腰を回す動きである。「熊経鳥伸」は『荘子』(刻意)にも出ている太古の導引である。鄭曼青は「鳥申、熊経」導引を太極拳の動きから還元することで考案した。もともと鄭曼青はラン雀尾が太古の神聖舞踏に淵源していると説いているがこれは儒教の八イツ舞がイメージされているものと思われる。八イツ舞は現在でも儒教の祭典で演じられているが確かにラン雀尾の動きに似ていなくもない。おそらく鄭曼青は太古の導引も神聖舞踏も、それを受け継ぐ八イツ舞も天地と一体となるエクササイズであり、それは太極拳と同じであるとする考えがあったのではなかろうか。『荘子』にある「熊経鳥申」も太古の導引や神聖舞踏を受け継ぐものであるなら太極拳と同じ流れにある。そうであるなら太極拳のエッセンスも太古の導引、神聖舞踏のエッセンスも同じと考えられるわけである。

外伝2太古導引と太極拳簡易式(2)

  外伝2太古導引と太極拳簡易式(2) タントラは性的な方法を含んでいるが、タントラは仏教でも生まれたし、ヒンドゥー教にも見ることができる。どちらから発生したのかは確かなことは分かっていないようである。一部の中国の研究者は中国では古くから房中術があった。それがタントラの発生に影響したのではないかとする。体操にしても性的な技術にしても、それぞれ自然に発生することは十分に考えられるので、一概に影響関係を云々することは妥当ではないであろう

外伝2太古導引と太極拳簡易式(1)

  外伝2太古導引と太極拳簡易式(1) 鄭曼青は簡易式(鄭子太極拳)を制定した。108式ある套路を37式にしている。それは一般的には張三豊の頃の太極拳の復元を視野に入れたものと解されている。しかし、改めて簡易式を検討してみると鄭曼青の考えにあったのは太古の導引ではないかと思われるのである。中国の研究者の中にはヨーガの体位法(アーサナ)は中国から伝わった導引の影響によるとする人もいる。確かに最も古い時代のヨーガは瞑想のみのラージャ・ヨーガで後に精神だけではなく身体的な操作をも行う密教的なヨーガとしてハタ・ヨーガが生まれたとされる。このハタ・ヨーガの段階で体位法が充実を見ることになる。このように本来のヨーガには体位法はなく、これは中国の導引の影響であると考えるわけである。ちなみにタントラの発生も中国からとされることがある。

外伝1綿谷雪『武芸流派大事典』のこと(4)

  外伝1 綿谷雪『武芸流派大事典』のこと(4) 綿谷雪には仙道や密教、占法まで広く紹介した『術』の著書がよく知られているが『図説 古武道史』『日本剣豪100選』や『武芸流派100選』『日本武芸小伝』などの武術関係のものも少なくない。ただ、これらは大体が広くいえば「考証」の部類に入るもので綿谷自身は実際の武術や仙道、密教、占法などの経験はないようであるので読んでいても深みというものは感じられない。歴史考証では江戸学を確立したといわれる森銑三なども居てかつては在野にあって驚くほどの文献を渉猟して研究をする人が居た。南方熊楠などもそうであろうが昔の人は本当によく本を読んでいたものと驚かされることがしばしばある。

外伝1綿谷雪『武芸流派大事典』のこと(3)

  外伝1 綿谷雪『武芸流派大事典』のこと(3) 『武芸流派大事典』のようなものを編もうとするのであれば項目別にカードを作ってそこに情報を蓄積していくことになるであろうが、そうしたものは残されているのであろうか。もし残っていれば、それがどのような史料によっているのかを知ることができる。江戸時代には藩校を中心に各藩で教えられていた武術と民間での武術が存していた。ただ幕末あたりになると農村部では地主など、都市部では豪商などがいろいろな「芸事」を習う余裕を持つようになる。千葉道場などはそうした背景の中で隆盛をきわめたのであり、市井の人々から各藩の藩士までもが剣術をい習いに来ていた。そうしたこともあって稽古のある日には門前に屋台が出たという。もちろん千葉道場は民間の道場であるが、坂本龍馬もそこで免許を得ていた。

外伝1綿谷雪『武芸流派大事典』のこと(2)

  外伝1 綿谷雪『武芸流派大事典』のこと(2) 『武芸流派辞典』が出されたのは1963年であったようである。次いで「事典」として1969年に『武芸流派大事典』が、更に70年には改定版、78年になると増補大改定版が作れれている。これは武術史などの研究家であった綿谷雪が山田忠史と共に編纂した労作と言うべき業績である。初めが「辞典」で後に「事典」とされたのは流派名だけではなくその「解説」の重要性を認めたためと思われる。ただ「解説」は版によって違いが見られ、必ずしも新しい版が良いとはいえないとことがある。綿谷も書いていているが「解説」についてはいろいろと批判もあったようで、そうした中で「真実」と思われるところが消えて流儀の「公式見解」に従ったと見えることろも散見している。そうであるからもし『武芸流派大事典』を見ようとするのであれば古い版のものと比べてもるのが適当であろうと思われる。

外伝1綿谷雪『武芸流派大事典』のこと(1)

  外伝1 綿谷雪『武芸流派大事典』のこと(1) 武芸の流派がどれくらいあるのか。それを調査することはなかなか困難であろうが、中国では民国の始めころに門派の調査がなされたようで呉図南の『国術概論』には多くの門派称が記録されてる。ただ「太極拳」といっても実際は楊家と陳家では内実が大きく異なる。また楊家と呉家でも違いを見せており、二十世の初めころに呉家を知る人が楊家を見て「同じものか」と疑問に思ったと記した本もある。細かくいえば太極拳でも楊家、呉家、孫家、武家などで風格が異なっているし、陳家も和式など地域によって独特な技術を伝承している。およそ一定の分野の「名称」を集めることは、その後に何らの「分類」を行うことで一定の隠された意味を見出そうとするところに意義がある。そうしたことができなければ「名称」のコレクション(名彙)はその必要性を見失うことになろう。中国で門派の名称を集めることが早々に止められたのはそれが意味をなさないからであり、そこに一定程度の「解説」を付するということが大切となる。

第九十九話 中国武術文献考(21)

  第九十九話 中国武術文献考(21) 「勁」とは「武術的な力」のことで、相手の動静をうかがうことのできる能力である「聴勁」や攻撃する能力である「発勁」などがある。他に相手の力を受け流す能力の「化勁」、巻き込むような武術的な力を使う「纏絲勁」などもある。「発勁」の練習というならば正拳突きや前蹴りの訓練も「発勁」の練習となる。しかし一般的に「発勁」としてイメージされるのは寸勁とされるものであろう。これは三センチくらいから拳を打って威力を発揮させる能力である。一般的には三センチくらいからでは拳で押しても相手に何らの衝撃を与えることはできないが、発勁を使えば一定程度の衝撃を与えることが可能となる。これはブルース・リーが早くに「1インチ・パンチ」として演武をしている。立たせた相手に近い距離から拳を当ててバランスを失わせてしまうパフォーマンスである。寸勁は威力としては相手を突き飛ばす程度に過ぎないが、思ってもみない距離から衝撃を受けることに意外性がある。この意外性による生み出される「機」を利用して一気に相手を攻めるのが寸勁の利点となる。こうした発想は柔術の当身と同じである。現在では「発勁」が神秘の力と見なされることが無くなったのは、動画が簡単に見られることが原因していよう。ブルース・リーの「1インチ・パンチ」を見ても興味深い技術ではあるが、一般的な武術の範囲を逸脱するようなものではない。八極拳も八卦掌も、秘伝とされた六合短捶も「武術の範囲」の中に留まるものである。「武術幻想」を売りにするような武術文献の時代は終わったのであろう。これからはより深い考察を提示するものとして武術文献はその存在価値を持つのかもしれない。

第九十九話 中国武術文献考(20)

第九十九話 中国武術文献考(20) 松田隆智により発勁」という語が広く知られるようになった。かつて日本の中国武術界では発勁を会得すれば絶大なる威力を有することができると考える人も多かった。しかし中国では「発勁」という語にそのようなニュアンスを持たれることはほとんどないであろう。むしろ「鉄砂掌」の方がそれを特別なものとして評価することがある。鉄砂掌は砂や緑豆、小さな鉄玉などを入れた箱や袋を用いて手を鍛えようとするもので、特殊な薬を使ったりするという。かつて香港の李英昴は百日速成鉄砂掌で有名であった。鉄砂掌を教本と動画で紹介し、加えて秘伝とされていた「薬」も付けて販売していた。ちなみに八卦拳では虎の骨髄液を使うとされていた。そうなると鉄砂掌の練習はできないこととなってしまう。日本では竜清剛の『鉄砂掌 中国拳法・秘伝必殺』がある。竜は双龍拳法総会なる団体を率いているというが『鉄砂掌』以降の活動は明らかではない。実は同書が発売された頃、奈良行の電車に乗っていたら竜が斜め前に座って来たことがある。白のポロシャツに白のパンツ、白の靴で、独特のサングラス、髭が印象的であった。他に『太極拳の科学』や『太極拳の神秘』などの著作のある陳孺性も実態がよく分からないが独特な武術論を披歴している。

第九十九話 中国武術文献考(19)

  第九十九話 中国武術文献考(19) 『実戦中国拳法 太気拳』は日貿出版というところから出されているが、ここはおもしろい武術の本を出しており力抜山の『秘武道 借力拳法』などという韓国系の武術を紹介したものもあった。「借力」というのは朝鮮の神秘的なエクササイズの基本にあるもので自然界に潜在しているエネルギーを借りて自分のものとしようとするものらしい。こうした秘宝は新羅時代の「ファラン(花郎)」という「結社」に淵源しているとする。そして「花郎」での秘儀は後には民間の宗教者や武術家、舞踏家などに受け継がれたとされている。個人的には「借力」はそうした「秘儀」の核心ではないかと考えている(力抜山の説く「借力」が「秘儀」を伝えるものであるかどうかは知らないが)。また日貿出版からは藤平光一の『心身統一合気道』も出ている。

第九十九話 中国武術文献考(18)

  第九十九話 中国武術文献考(18) 鄭曼青の太極拳(簡易式)を紹介したものとしては汪調源の『太極拳 健康・美容に効果抜群の中国古武道』がある。同書にはカク家太極拳として張峻峰の伝えた太極拳も紹介されている。これは易宗太極拳とされるもので、楊家をベースに八卦掌の影響が強い(武家の系統であるカク家とは違う)。他に汪には韓慶堂の伝えた教門長拳を『十路潭腿・連歩拳・功力拳 中国拳法北派少林拳』にて著している。汪は霊的な世界の研究もしていて『これが霊魂の世界だ』『霊界の大法力』などの著書もある。鄭子太極拳は文人拳として台湾では人気が高いし早くに北米で鄭曼青が指導したこともあってアメリカでもよく知られている。鄭曼青は有名な画家で伝統的な文人画の風格を伝えており、蔣介石夫人の宋美齢の絵の師でもあった。楊澄甫の弟子の傅鐘文がアメリカに指導に赴いて帰国する時に東京で会ったことがあるが、鄭子が太極拳として定着していたために「傅の太極拳は本物か」という議論が生じたという。傅鐘文は「自分は澄甫とは同郷であり小さい頃から澄甫に就いていた。また娘婿でもある」と鄭曼青への不満を口にしていた。この時には孫の清泉も同行していた。京王王プラザの喫茶室で「何を飲みますか」と聞いたら「コーラ」と答えたのが印象的であった。現在、清泉は高い功夫を見せている。

第九十九話 中国武術文献考(17)

  第九十九話 中国武術文献考(17) それにしても沢井健一の伝えた「立禅(踵を少し浮かせる)」や「這」は意拳で見ることのできないものである。中国には伝承のよく分からないが、何らかの真伝が継承されているのではないかと思わせるものが少なくない。台湾やアメリカで武術を教えていた尹千合という人の伝えた呉家太極拳も独特で他では見ることできない動きである。日本では布施勲が『図解コーチ 太極拳』で紹介している。このシリーズは『合気道』として鶴山晃瑞が大東流を紹介するなどかなり独特な選択が見られる。布施はほかに『少林拳入門』も著している。尹千合の太極拳は安定邦が伝えたもので安は呉鑑泉から楊家太極拳の大架式を学んだとする。ただその套路は呉家にも楊家にも似ていない。他に台湾では熊養和という人の太極拳も有名であったが、これは熊氏太極拳と称していた。おおよその動きは楊家であるが伝えるところでは甘鳳池の江南派太極拳、胡虎の古式太極拳に楊健侯の楊氏太極拳が基になっているとする。甘鳳池は「武侠」として映画などでは知られた人物であるが武術の伝承については明らかではない。太極拳の演武を見ると如封似閉で左手はそのままに右手を大きく下げている。これは楊澄甫の晩年の動きである。このことからすれば、熊氏は楊家でも新しい段階の形ということになる。また王延年の楊家秘伝太極拳も独特である。これは王延年が張欽霖より伝えらえたものとする。張欽霖の名は楊澄甫の『太極拳体用全書』にも弟子として名前が見えている。また張は左莱蓬から神仙道(金丹派 龍門派)を学んだという。左の教えは鄭曼青も強い影響を与えて、それにより太極拳の深い悟りを得たとされている。王延年の太極拳は台湾では人気があって練習する人も少なくない。

第九十九話 中国武術文献考(16)

  第九十九話 中国武術文献考(16) また『太気拳』からは「立禅」という語が一般化するようになった。「立禅」という言い方そのものは中国の古い文献や江戸時代に儒学者の書いたものの中にも見ることができるが、この言葉が馬歩トウ功のイメージと共に一般化したのは沢井の著書からである。ちなみに神仙道の古典『性命圭旨』ではただ立っているだけの姿を立禅としている。坐禅に対する立禅ということであれば、手は坐禅の形のままで立つことが予想されるが、沢井が「立禅」として示したのは中国武術では馬歩(トウ功)と称されてきたものである。『太気拳』はある種、日本人の琴線に触れるところがあったのであろう。ただ「立禅」と「這(はい)」だけをやれば良いというのは日本人好みといえるのかもしれない。後に沢井の弟子たちは大陸の意拳家とも交流をしていろいろな「形」を導入する者も出たが、そうなると興味が半減されて「普通の中国武術」という感じになってしまうのか実際に太気拳が大きな広がりを持つには至っていない。ちなみに『性命圭無旨』では禅宗で言う「白隠流」で手を組んでいるようである(衣服に隠れて明確ではない)。これは神仙道では一般的に用いられる手の組み方である。臨済禅は白隠から一変したとされるが、白隠は白幽子から神仙道の伝授を受けたようであるから、臨済禅は白隠からより神仙道化したとすることができるのかもしれない。

第九十九話 中国武術文献考(15)

  第九十九話 中国武術文献考(15) 興味深いことに動画で見ることのできる沢井健一の形意拳(五行拳)の動きの歩法(跟歩)は特に優れている。日本の形意拳は王樹金より伝えられたものが主流であったが、王はその巨体のためもあり本来の跟歩ができる状態ではなかった。本人も八卦掌の方に興味があったようで多くの套路を創作しているが、これは跟歩ができないことと関係があったのかもしれない。あるいは八卦掌に興味があったために跟歩の練習をあまりしなかったのではないかとも思われる。それはともかく跟歩は剣道の継ぎ足と同じように速くおこなわなければ意味がない。形意拳は五分くらい套路を練習したら少し休んでまた練習をするというパターンで行うものとされている。休んでいる時には汗は軽く拭くらいにして、水で顔を洗うなど体を冷やすようなことをしてはならないとされている。つまり五分くらいの練習でかなりの汗が出るほどの運動量があるということである。跟歩は一気に間合いを詰めてしまうもので、これは相手の予想よりも大体、半歩くらい速く間合いが詰まることになる。この意外性が「死角」を作り出すわけである。

第九十九話 中国武術文献考(14)

  第九十九話 中国武術文献考(14) 沢井健一の『実戦中国拳法 太気拳』は隠れたロングセラーといえるのかもしれない。現在は新装増補版が出されている。沢井は戦前に王向斉から意拳を習ったという。意拳は大陸ではほぼ忘れられた武術となっていたが、この本の出版を機に大陸でも意拳の本が多く出されるようになった。ただ不思議なことに、沢井に関しては大陸で出ている本を見ても大体が日本で出版された情報の範囲に留まるもので、共に拳を学んだというような話はほとんど出てこない。また唯一、同門の人物としている「黄樹和」についても不明のままである。そうであるなら沢井は本当に意拳を学んでいないのか、というとそうではないようで、沢井の動きは全く意拳独特のものである。また通背拳の武田熙は大陸で沢井に意拳を習うことを誘われたと述べている(『通背拳法』の日本語訳版)。また『太気拳』の出版に際して沢井は「写真では本当の動きは分からない」というようなことを言って難色を示したとされているが、これは本当で意拳(太気拳)は独特の動きをする。確かに沢井の動きは意拳そのものであり、そのことを沢井もかなりの意識をしていたとのであろう。これらは沢井が確かに大陸で意拳に触れていたことを証しするものと考えられる。

第九十九話 中国武術文献考(13)

  第九十九話 中国武術文献考(13) 外丹功はかつて台湾で大流行していたことがあり、わたしも台北の高速道路の近くの「道場」(ビルの一室)に毎週通っていた。張志通は秘伝書である「父冊」と「母冊」を授けられ困ったことがあればこれを開くように言われていたという。台湾では気候が合わないで体調を崩したために「父冊」「母冊」を紐解いて研究をした結果、万民のための健康体操として外丹功を編んだという。ちなみに「父冊」「母冊」は洪水で流されてしまったとする。外丹功のことを初めて聞いたのは瞑想法の指導をしていた山田孝雄のところで開かれていたシルバマインドコントロールのセミナーにおいてであった。この時、偶然にも松田隆智が受講していて、雑談の時に台湾在住のセミナー受講者に「今、台湾では何が流行ってますか」と聞いたところ「外丹功です」との答えたのが印象的であった。松田とは他にも西荻窪のホビット村で開かれたおおえまさのりの『チベットの死者の書』の出版記念会でも出会ったことがある。この時には途中から中沢新一も顔を出して、ワインをかなり飲んで酔っていると話していた。この頃は精神世界ブームで、イギリスに渡ってチベット仏教を教えていたチョギアム・ツルンパなどが酔っ払って法話をしたといったことが「悟っている」として好んで話題にされたりしていた。ツルンパも後にチベットの高僧が来た時にはまったくまじめな態度でそれを見た西洋人の信奉者は失望したとも聞いたことがある。松田はこの頃「ザ・メデイテーション」という雑誌でラダックで瞑想をしているとか太極拳を紹介したりしていた。アメリカでは中国武術はこうした「精神世界」の中の一部としてヨーガやトウフ(豆腐)、マクロビオティック(玄米食)などと共に知られるようになって行ったが、日本では床運動的な大陸系の「ウーシュ(武術)」と、それに対して実戦を標榜するマニアックな台湾系が対立するような形で徐々に広まって行った。

第九十九話 中国武術文献考(12)

  第九十九話 中国武術文献考(12) 大きな世の流れにより人生を翻弄された人は少なくなく大陸赤化もそのひとつであるが、日本には残留孤児の問題もある。実際に残留孤児が日本に来るようになると中には武術を習得している人も居ることが知られるようになる。わたしは形意拳の利根川謙や通背拳の常松勝には会ったことがあるが利根川は「働かないといけません」と言っていたのが印象的で貿易関係の仕事に就くと聞いた。かなりの功夫も持ち主であったが、武術を教えることはほとんど無かったようである。常松は『通背拳』『秘宗拳』などを著している。通背拳(通臂拳)は歴史の古い武術で猴拳の系統に属するとされている。常松は著書の中で「丹気門」のあることを紹介しているが、台湾の張志通も通臂拳に不可思議な教えのあることを述べていて、それによって外丹功、内丹功を考案したとする。