第一章 塩田剛三と金魚(3)

 第一 塩田剛三と金魚(3)

およそ日本の文化において立花でも、喫茶でもそれが「道」となる時には「禅」的なものがなければならなかった。「禅」には教外別伝の語があるように仏教の経典に記されている「教」にとらわれないとする立場がある。そうであるなら教外別伝は何によるのかといえば「体験」によっている。釈迦が教えたことではなく、釈迦が体験したこと(坐禅)を行うことで悟りを再体験することができると考えるのが禅宗である。こうした体験による「知」を重視する考え方が「道」を付するエクササイズの誕生を促したのであった。つまり「武道」にあっては本来的は「禅」という方法を通して流祖が残した「技」が生まれる過程を再体験する、奥義の技が生み出された瞬間にもどってそれを体験しようとする。そうした試みであるべきが本来の姿でなければならないのであった。

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