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道徳武芸研究 一箇条の不思議(3)

  道徳武芸研究 一箇条の不思議(3) 形意拳の崩拳の回身式である狸猫倒上樹は「一箇条」のように相手を引き倒すというより、腕と肩を制することで相手の動きを止めて蹴りを極めることに眼目があるのは説明した通りであるが、こうした手の使い方は下の蹴りを見えなくさせる。こうした使い方は八卦拳では暗腿(見えない蹴り)とされる。この狸猫倒上樹と似たものに同じく形意拳の十二形拳の龍形拳がある。ただ龍形拳の場合は狸猫倒上樹のように前に出るのではなくて、後ろに引く形となり、この方が相手を引き倒す「一箇条」の動きに近いともいえる。こうして相手の腕を制する方法を形意拳では「捜骨」という。つまり相手の肩と腕(の骨)を適切な角度で抑えるという教えである。このように形意拳では相手を捕捉する「鷹捉」の基本として「一箇条」の動きを用いているわけである。また八卦拳では龍形八卦掌の単換掌で「一箇条」と同じ動きをする。これは右手で相手の腕を取って引き、左手で肩を抑えている形である(反対もある)。基本的な動きであれば、こうして相手の体勢が崩れたところで、歩を進めながら右肘を相手に打ち込むことになる。ちなみに双換掌では上段そして下段へと掌を打ち込む形になり、より複雑な展開を見ることができる。龍形八卦掌は形意拳の原理をベースに入れているので、こうした使い方は形意拳の「鷹捉」に近いものということができるであろう。

道徳武芸研究 一箇条の不思議(2)

  道徳武芸研究 一箇条の不思議(2) 形意拳における「一箇条」は、三体式において明確に示されている。形意拳が他の武術に比べて高度であるとされるのは、この三体式つまり中段の構えをベースとするシステムを確立し得ているからに他ならない。三体式は相手の攻撃を捕捉する技法で、右で相手を捉えて下に崩すと同時に、左の掌をその肩に置く(この反対もある)。そして、そのまま下に引けば「一箇条」と似た動きになる。形意拳の用法ではあえて大きくは崩さないで、小さく体勢を崩して、その空いたところに拳を打ち込むのが基本的な展開となる。いうならば三体式は拳を打つための準備なのである。また「一箇条」は崩拳の回身式である狸猫倒上樹にも見ることができる。「狸猫」は山猫のことで、それが樹木に上るというのであるが、「倒」が入っているのは、上るのではなく引き倒すという意味であるためである。これは太極拳の倒輦猴と同じで輦は高貴な人の乗る車のことであり、それは前に進むものであるが、後ろに進むので、「倒」が入っているわけである。それはともかく狸猫倒上樹でも、三体式と同じく相手の攻撃を右で受けて、左を肩に掛ける(反対もある)が、この時には相手の膝を踏み込むように蹴ることが秘訣となっている。

道徳武芸研究 一箇条の不思議(1)

  道徳武芸研究 一箇条の不思議(1) 合気道でも大東流でも一箇条(一教、一本捕り)は技の基本とされる。またおもしろいことに太極拳でも活歩推手(大リ)でこの抑え方が出てくるし、八卦拳や形意拳の基本の構えもこの抑え方を前提としている。こうしたかなり普遍性を持つ基本技としての「一箇条」なのであるが、それが基本とされるのは、これが中段の構えをベースとしたものであるからに他ならない。中国で「槍は諸武器の王」とされるが、それは槍が中段の構えを明確に取っているためである。中段の構えは「あらゆる変化を含む」ものとされている。またそうしたものとして「中段の構え」は練られなければならないのである。こうした中段の構えを重視する考え方は、合気道では「剣の理合い」として言われている。合気道と剣術とは実際の技において関連性を認めることはできないが「剣の理合」が中段の構えのことであることが分かれば、剣術との関連も首肯されるのではなかろうか(日本では刀を中段の構えで用いる)。

宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その3

  宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その3 「戒力」とは、悪行を断つことをいう。修行者は、はたしてよく内に心を戒めることができているであろうか。外に身(行動)を戒めることができているであろうか。ここに「戒力」を用いれば、自ずから勝つことができるのである。つまり天より戒めを守る人に戒の神などが遣わされて、その身を守るのである。あらゆる行動において、あらゆる善なる縁が結ばれ、起居坐臥にあっても、全く悪い行為がなされることがなくなる。こうした戒を守ることが久しければ、道の修行をしていない人でも、道に入ることができる。これはまさに「戒力」をして自ずから勝つということになる。昔しより今に至るまで究極の境地を得た人で、「戒」を修せずして道を得た者は居ない。今、道の修行をしている人で、初心の人は、三戒や五戒を守っていることであろう。また初心十戒や九真妙戒を守っているかもしれない。もし「戒力」がよく堅固であれば、千二百の善行を成就して、更には「持身の戒」「観身の戒」を修する。百八の戒、三百の大戒を修するわけである。こうして次第に戒を進んで行けば、道の修行は必ず進んで成就するものである。これが「戒力」をして自ずから勝つということである。諸々の天の神は善を守り、諸々の悪神も敬って守ってくれる。こうした人は、まさに「強」いということができる。 「進力」とは、けっして精進(適切な努力)を怠ることのないことをいうものである。精進をしていると、不思議な程に集中できるし、初心を貫くことも可能である。それを例えるなら自分を卑下してあえて目的とするところを高いところにあるとするようなものである。また、あえて目的とするところが遠くにあるように考えるようなものでもある。そして、しっかりと確実に歩みを進める力を持つのである。こうしたことは「六行」とされる。あるいはまた「六度」とも称される。一は布施、二は持戒、三は忍辱、四は勤慎、五は静定。六は智慧である。もし、これら「六行」をよく行ったならば、道の徳は日々に新たに開け、不変の真(真常=大道)はおのずから得られる。まさにこれが「精進力」といわれるものである。 「念力」とは、念の動きを止めることをいう。修行に縁のある人であれば(道の修行への)「念(おもい)」が生じれば、そこから悟りへの道に入ることができるものである(人は本来、善なる心を持っているので常に道

宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その2

  宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その2 聖人が相手に勝つ「力」には十の用い方がある。一は信力、二は捨力、三は戒力、四は進力、五は念力、六は定力、七は慧力、八は智力、九は道力、十は徳力である。 「信力」とは、信ずることで、これは心を起こした時に発動される。大道を尊び信じ、まったく疑うことのないことをいう。そうであれば道の修行は必ず円満に終えることができるであろうし、天上界で聖なる地位に就くことも可能となろう。全ての至聖、真仙、究極の悟りを得た者は、いまだかつて始めに「信」の力を起こすことなく成就を得た者は居ない。すべては「信」じることから始まったのである。そうであるから俗を超越して聖なる境地に入るには、必ず信力によって修行がなされなければならない。初めから終わりまで、行の成就を迎えるまで必ず「信力」の二字を離れることはできないのである。「信力」こそが真に修行を成就させるための「種」であり、道の修行に入るための根本はここにある。もし「信力」がなければ、修行を成就させることは難しい。ここで老子は「自ずから勝つ」としているが、それには「信力」によらなければならない。 「捨力」は得られる物をも捨てる力である。「捨力」の修行には三つある。一は大捨、二は中捨、三は小捨である。「大捨」とは心身を共に捨てることで、一切を忘れ、虚空と一体となることで、何かが得られるどのようなことも放棄されて、けっして貪ることがない。これが「大捨」である。「中捨」は修行によって布施が得られても、貪りの心を起こすことなく財貨に執着しないことで、これが「中捨」である。「小捨」は、行をして得られた布施を功徳と思うもので、他人を利することで自分が得になると考える。これが「小捨」である。ただこれらは「大捨」「中捨」「小捨」の違いがあるものの、もし道の悟りを得られるような大いなる才能(大根)があり、大いなる適性(大器)を有している人であれば、相手も自分をも共に忘れて、色(存在)と空とが一つとなっているので、こうした三つのレベルの存することはない。そうであるから修行者はこうした「力」に依らないで、自ずからにして勝つことができるのである。道の徳を日々に深めて、煩悩から日々に離脱する。つまりこれが「強」いということなのである。 〈奥義伝開〉老子は勝つことができるのは「力」があるからである、としているが、修行におい

宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その1

  宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その1 相手に勝つのは力があるからである。自ずから勝つのは強いからである。 [相手に勝つのは力があるからである。勝つ者は強いのである] 「勝」つということは「内」的には「力」があるからであり「外」的には「強」いからである。一般的には相手に勝つことができる「力」は、覇王の持っているような誰も及ばない程の勇敢さと思っているかもしれない。また伍子胥(ご ししょ 春秋時代の軍人)の千斛(180キロリットル)もの鼎を挙げることのできる「力」であると思うかもしれない。これらは全て血気の「力」であり、人に勝つことのできる「力」である。こうしたことを「相手に勝つのは力があるからである」と言っている。もし聖人が力比べをしようとするなら、そうした「力」があるだけでは不十分であると考える。聖人は力比べをする前に既に勝っているのである。聖人は天地と一体であり、万物と一体であるので、生死とも一体となっている。道徳とも一心である。一瞬で時を超えて、瞬時にあらゆる時のことが分かる。壊れることも、滅びることもない。そうした聖人がはたして「力」だけに頼るのであろうか。 〈奥義伝開〉ここで宋常星は「力」ということにかなりのこだわりを見せて、以下延々と「力」について述べている。そのためこの解説では、この部分を八回に分けて掲載することにする。『老子』の理解ということからすれば、やや煩雑な感じもあるが、近世の中国で道の修行をする人がどのようなことを重要と考えていたか、がよく分かるであろう。ここで老子は、戦いに勝つのは「力」があるからであるとしつつも、「力」があれば必ず勝てるというものではなく、結果として勝つのは相手より「強」いからであるとしている。当然といえば当然であろう。つまり「力=強」ではないということである。つまり「勝つ者が強い」のであって「力がある者が強い」わけでは必ずしもないということである。中国では「武術に優れた者は打たれて死ぬ。水泳に優れた者は溺れて死ぬ」と言われているように、人は往々にして「力」のあるところで「勝つ」ことができないのである。

道徳武芸研究 変容する太極拳〜無為自然〜(4)

  道徳武芸研究 変容する太極拳〜無為自然〜(4) 変容した太極拳が持つおもしろさもは、意図しないところにある。それは「無為自然」の中から生み出された、とすることもできるであろう。こうした「変容」は何も名人だけではなく誰にでも起きることなのであり、そうした「変容」を楽しむこともできるであろう。また太極拳だけを修練していても、その人の「性(本来の心のあり方)」が自然に太極拳の動きにも反映されて「変容」が生まれることになる。これが静坐などで重視される「性命双修」である。ちなみに「命」は「本来あるべき体の働き」のことで、そうした本来的なものすなわち自然なものを取り戻すことが武術や静坐のおおきな修行の眼目なのである。そうであるから「変容した太極拳」は当然、出現してしかるべきものなのである。

道徳武芸研究 変容する太極拳〜無為自然〜(3)

  道徳武芸研究 変容する太極拳〜無為自然〜(3) 太極拳では攻防の形が抽象化されて表されているので、その套路は「攻防の原理」に近いものに還元されている。「攻防の原理」はどの門派でも変わることはないので、それに自分が本門としている技術のエッセンスを乗せることは比較的容易であるので、長い間に自ずから独特の風格が形作られて行くのであろう。例えば進歩搬ラン捶であれば、それは「前に進みながらの突き」であるが、突きのところはゆっくり行うので、それが抽象化されて「腕を伸ばす」という動作へと還元されている。そうであるから「腕を伸ばして突く」動きの特色を持っている門派でも、「腕をあまり伸ばさないで突く」といった特色を持った門派でも、どのような動きも「微調整」をすることで取り込むことが可能となるわけである。こうしたことが意図することなく行われて出来たしまった「太極拳」が、ここで言っている「変容した太極拳」なのである。

道徳武芸研究 変容する太極拳〜無為自然〜(2)

  道徳武芸研究 変容する太極拳〜無為自然〜(2) 太極拳そのものは意図を持って作られたものである。近代以降では武家、呉家、孫家などではそれぞれに創始者があり、その試行錯誤を重ねた上で編み出されたものである。武家は武禹譲が、師の楊露禅が隠して伝えなかった伝書を独自に発見して、伝書の内容により忠実なものとして改変した。この流れを受けた孫禄堂は太極拳の特徴は開合にあるとしてそれをベースに形意拳や八卦拳の動きを取り入れた。呉家では始める露禅に太極拳を実戦的に改めた一般的には「砲捶」にあたる太極長拳を学び、後に露禅の息子の班侯から太極拳を得てそれらを融合した拳を編んだのであった。鄭曼青の簡易式(鄭子太極拳)なども太極拳のオリジナルの原理に最も忠実である形が、張三豊の形に最も近くなるであろうとする原理を基に考案されている。これらはある種の目的や意図によって作られた太極拳で、前回、紹介したようなほぼ意図せずして自ずから生み出されたものとは少しく成立の環境が異なっている。

道徳武芸研究 変容する太極拳〜無為自然〜(1)

  道徳武芸研究 変容する太極拳〜無為自然〜(1) 常東昇は中国相撲の名手であった。また衛笑堂は蟷螂拳の名人であった。この二人に共通するのは太極拳をも長く修練をして、後に常式と衛式と称される太極拳を残したことである。また教門長拳の韓慶堂も中央国術館で楊澄甫から太極拳を学んでおり、弟子に教えている。一方、楊澄甫は韓慶堂から教門長拳を教えてもらい、その成果を太極長拳に中に取り入れたとされる。更には八卦拳の何静寒老師は熊養和から太極拳の教えを受けて八卦拳を指導すると共に太極拳をも教えておられる。他に例をあげれば枚挙のない程であるが、太極拳は実に広く門派を越えて親しまれている。またこうした老師たちは、自分が本門とする拳の他に太極拳を練習していて、結果として長い間に太極拳の中に自ずから本門の拳の風格が入り込んで独特の味わいを醸し出している。

宋常星『太上道徳経講義』(33ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(33ー3) 自ずから知ることのできるのが「明」である。 [知ることができるのは理解する(明)からである] 大体において修行をしている人は「外」的な知覚を通して、それを「内」的に受け取る時に、多少の「不純」が含まれていることを自覚しているであろう。「外」的には充分な知覚を有していても「内」的にはそれをそのままに認識できない部分がある。そうであるから精神は適切に働くことなく、知覚も適切に外的な事象をとらえることができないのである。「穆」を抱えて「淳」に還る(余計な先入観を排してただ認識できたものをそのままに知覚する)。「私」を少なくして「欲」を小さくする。こういう状態を久しく続けていると、「本性(純粋知覚)」は自ずから明らかとなる。心の徳を自ずから悟ることができるようになる。真知(純粋知覚)、真智(純粋認識)が自然に現れて来るのである。そして他人のことが分かるだけではなく、古今東西、何でも知ることができるようになる。修行者は、はたしてよく虚静を守っているであろうか「内」も「外」もなく、過去も現在もない。こうした中に自ずから「内」的な目で見たならば、意図しない内に奥深い知覚が得られるものである。真静で心身が安定していていれば、空に月が出て来るように、まったく明らかなる知覚が開かれて来るのである。こうした知覚が「本性」に基づく「明」らかさなのである。そうでなければ、そうした知覚が得られることが果たしてあるであろうか。 〈奥義伝開〉本当の「静」である「真静」が得られたならば、本来的な感覚が開け、真実を認識できるようになる、と宋常星は述べている。これは仏教でも同様である。釈迦の頃は瞑想により感覚器官を浄化することが最重要視された。ただ感覚器官の「完全」なる浄化は不可能であるから、完全なる認識も人は得ることはできないことは仏教の長い歴史が証明している。ここで老子はそうした妄想的なことを言っているのではない。「智」と「明」については従来の「智」と「明」を対にする解釈で読んでみたが、以下は[ ]で示したように、二つのフレーズをひと続きとして読む解釈で提示する。これは「自」の意味の取り方によるもので、これを「おのずから」とするか「よる」とするかで違って来る。私見によれば老子は「知(智)ることができるのは理解する(明)からである」と述べているということになる

宋常星『太上道徳経講義』(33ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(33ー2) 相手のことを知ろうとするのが「智」である。 外的なことを知るのが「智」であるとされる。内的なことを知るのは「明」である。「智」の一字は、まさに外的なことを知ることを示しており、これにおいては決して内的なことを知る時の弊害は明らかとはならない。つまり道を明らかにすることができないのである。「外」的な「智」は自ずから明らかとなるものではないのである。そうであるから「相手のことを知ろうとする」とあるのは、「外」的な認識作用のことで、相手がどのようであるかを知ることができるに過ぎないのであり、相手の言動が適切であるかどうかを明らかにすることができるものではない。自分の本来の心のあり方である「本性」が明らかでない時には「智」に留まらなければならない。これを自ずから分かる「明」とすることはできない。そうであるから「相手のことを知ろうとするのが〈智〉である」とされているのである。 〈奥義伝開〉意図的に知ろうとすることが「智」とされる。宋常星はそれでは「大道」への悟りは得られないとする。あくまで「大道」は自ずから明らかになるものでなければならないからである。ただ老子はそうした特殊な場合を言っているのではなく、一般的に知ろうとして知り得た「智」と、常識的に分かっている「明」とがあることを述べているに過ぎない。真の「大道」とは、この世の大原則のようなものであるが、それを知るにはよく情報を吟味してみなければならない。孔子はこうしたことを「学」と「思」として説いている。知識を収集するだけで考えることがなければ本質的な洞察には到達し得ないし、考えるだけで知識が乏しければとんでもない思い違いをしてしまう、というのである。老子も同様のことを言っているわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(33ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(33ー1) 天地の化育は、その道をただ行うだけであるとされている。聖なる王の明徳は、その心をこだわりから解放させる。道から解放されるとは、ただ陰陽によるということである。もし天地が陰陽で成り立っていないならば、そこに道を実行することはできない。心から解放されるとは、誠明であるということである。聖なる王は誠明でなければ、その心を解放することはできない。そうなれば聖なる王は個人の心から解放されて天地、万物と同等な存在となる。つまり聖なる王は、人々を解放された心である「一なる心(大道と一体となった心)」をして観ているのである。万物を一体として観ているわけである。穆(つつしみ)を常に実践していれば、心は個人のこだわりを脱して、あらゆる存在も異なるものとは見られない。本来的に聖俗、大小の別は存していないからである。あらゆる人々を「一なる心」で観たなら、ただ一であり他のものではあり得ない。天徳には「私」は無く、それは耳や目をして聞いたり見たりして得られるものでもない。耳や目を通して聞いたり見たりしたことは天徳の良知ではない。誠明の実理ではない。目で見えるのは形のあるものであり、形のないものは見ることはできない。耳で聞くことができるのは音のするものであり、音のないものは聞くことができない。こうしたものは耳や目を通して得られるが、それは単に「外」を見たり聞いたりしているのであって、「内」を見たり聞いたりしているのではない。そうであるから、こうしたことによって、自然に知ることができ(自知)たり、自然に勝つことができ(自勝)たりすることはない。実際に見たり、聞いたりして得られた個々人の認識は決して一つではない。それは、これまで死んで亡くならなかった人は居ないのと同様に明白なことである。欲望を脱して居る人は、先ずは自分へのこだわりから脱している。自分へのこだわりから脱すると、天下でも、国家であっても、それを脱していないことはない。もし、そうでなければ、目で見たり、耳で聞いたりしたことにとらわれてしまうことであろう。「名」にとらわれたら「実(本質)」を見失ってしまう。心身であっても家、国、天下でも、これらは無為にして治まるものである。 この章で老子は「自分を脱する」ことが、天下において実践されなければならないと教えている。古くから聖賢は、こうしたことを「内」で

道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(4)

  道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(4) ただ立つだけの混元トウに「虚」を置いた意拳であるが、しかし実際の攻防を効率良く行うにはやはり蹴りなら蹴りの合理的な体の使い方があるので、それを習得しなければ余りに練習において非効率である、という現実に直面する。そうしたこともあって王向斉も形意拳の技を套路としてではなく個々の技に分解して教えていたようである。意拳の考え方では、混元トウで「虚」の境地を得て、自由に攻防をすれば自ずから「実」にあっては最も自然である動き、つまり最も合理的な動き出てくると構想したのであったが、それは実際には不可能であることが分かって来る。そこで「実=器」から「虚=樸」への還元はどのくらいの程度に行うべきか、ということが問題となろう。それは老子の示している通りの「樸」つまり「加工されていない木」までが適当なのではなかろうか。また老子はこれを「嬰児」ともしている。人を出現させるにはその「嬰児」あたりに還元させるのが現実的なのである。そうであるからやはり孫禄堂のように八卦拳であれば、八母掌にまでの還元が適当なのであって、これをただ立つだけの混元トウにまで至らせてしまうと、攻防へのリンクが繋げなくなってしまう。改めて見てみると中国武術には「母拳」という考え方がある。まさに八卦拳では八「母」掌があるわけである。このように本来、中国武術には「樸」へと還元することのできるシステムがあったのである。それが忘れられて試行錯誤されたのが近代の王向斉であり孫禄堂であったのである。近代に展開された虚実論よりさらに優れた樸器論が老子によって唱えられていたわけである。

道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(3)

  道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(3) 「実」として現れた分脚、トウ脚、あるいは端脚や擺脚などあらゆる蹴りは、足をあげるという一般的にだれでも行っている動作(虚)に還元できる、と考えるのが孫禄堂の実と虚の理論であり、その構図は老子の器と樸の考え方と等しい。そこで具体的に孫禄堂における実と虚の問題を考えてみたいわけであるが、孫禄堂は八卦拳では導引的な動きである八母掌を「虚」として、実際の攻防を「実」と見ていた。この「実」の部分は古い八卦拳では羅漢拳としてあったのであるが、孫はそれを廃して八母掌だけにすることで門派の壁を無くそうとしたのである。確かに八母掌は攻防の動きそのものではないので「実=器」とは言い切れない。「虚=樸」であるとすることは可能であろう。一方、王向斉は意拳でただ立つだけの混元トウをベースとした。立つことがあらゆる動きの根元であり、そこから足を上げたり、手を伸ばしたりすることで、攻防の技が生まれると考えたのであった。王はその「虚」を「混元」トウとしているが、混元は混沌と同じく「虚」の世界を象徴する語である。こうして見ると八卦拳独特の動きを含む八母掌を「虚」とする孫禄堂より、ただ立つだけの混元トウを「虚=混元」とする王の方がより理論的には徹底していると言えるようでもある。

道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(2)

  道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(2) 「知」を秘伝、奥義として閉鎖的に扱うことが文明の発達の弊害となったことが広く認識された近代中国では、中国武術にあっても「門派」への疑問が大きくなって行った。こうして広く各派の技術交流を促すために中央国術館構想が実施されることになる。これは中央国術館を中心に各地に国術館を設けて広く技術の交流を促し、門派の閉鎖性を打破しようとするものであった。こうした中にあって孫禄堂によってひとつの理論が提唱されるようになる。それは実と虚の伝統的な考え方によるものであった。実際の「技」を「実」として、その動きはこだわりのない動きである「虚」から生まれる、としたのである。そうなるとあらゆる「実」の動きは、全て「虚」へと還元できることになる。これは老子が幾筋もの川の水が、海へと流れ込む譬えで「大道」つまり「樸」を説明したのと同じである。つまり例えば武術の技である前蹴り(実)は、足を上げるという動き(虚)から生まれているのであり、足を上げるという動きは、前蹴りだけではなく、後蹴りでも横蹴りとしても等しく展開されることになる。

道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(1)

  道徳武芸研究 『老子』第三十二章と意拳の試み(1) 今週は『老子』三十二章を取り上げている。これは「樸」「名」「器」に就いて述べたもので、便利な「器」を使う時には注意をしなければならないとの教えであった。老子というと単純に文明の利器である「器」を否定して、自然のままである「樸」を尊んだと誤解されているが、そうではない。充分に注意をすれば「器」を使うのに問題はないと教えている。意拳は王向斉によって創始されたが、そこにもこの「樸」と「名」と「器」との関係における問題意識が前提としてあったのである。王向斉の生きた中国近代は「器」としての套路に固執するために門派どうしの対立が生まれることへの弊害が大きく指摘された時でもあった。それは三百年くらい前にはヨーロッパを凌駕していた中国文明が、近代になると遥かに遅れをとっていたという事実が背景としてあった。ヨーロッパでは「大学」が設けられ「知」は広く公開され共有されたので急速な文明の発達を見ることが出来た。そのことに近代中国の人々は気づいたわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(32ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(32ー4) 物事を規定しようとするなら名称を付することになる。名称が既に有れば、それ以上の情報をそれに加えることはできない。これが分かっていれば問題はない。こうした道が天下に行われているのは、川の水が海に注ぐようなものである。 「無名の樸(「名」を付される前のその存在そのままのあり方)」ということを、よく考えてみるに、それは天地の始めであり、形を有することもなく、形がないというのでもない。そこは造化の根元であるといえよう。そこには太極の本質であるといえよう。そこは本来的には「道」とされることもないし、特定の「名」を持つこともない。「規定」するとは一定の概念で括られるということである。万物は既に存している。聖人は「規定」を作って万物の秩序を明らかにする。こうしたことにおいて強いて「名」を付するとすれば、本来的な姿である「樸」は失われて、特定の使い方を持つ「器」となってしまう。そうであるから「物事を規定しようとするなら名称を付することになる」とあるのであり、そうなればその本来の姿である「樸」は失われてしまうことになるのである。物事に特定の「名」が付されている。天地万物、方円曲直、巨細小大、虚実有無、これらは全て特定の働きを持つ「器」でないものはない。「器」でないものには「名」はないからである。「名」を決めてしまえば、それ以上のものはそこには存しないことになる。「一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」(第四十二章)のであるから、形を持つ「万物」にはそれぞれに「名」が付されている。しかし、一定の利用が認められた「器」にはそれ以上を求めることができない「限界」がある。実際に存在が「名」によって限定されることはないが、人の意識において「名」はその働きを限定するものであるから、結果として「器」としのあり方を「名」は限定してしまうことになる。「名」と「器」はそれぞれが限定をするものである。そうした限定をしないのであれば「物」にこだわる必要もなくなる。こうしたこだわりを捨てたところに「道」がある。そして「物」そのままで「道」(という包括的な概念を)」も捨てる。そうした心の境地が「無名の樸」なのである。そこでは(全てが自然のままに働いていて)何らの問題も生じない。道を知る人は、けっして特定の用い方のできる「器」を利用しようとはしない。それは本来の姿で

宋常星『太上道徳経講義』(32ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(32ー3) もし、よくその国を(永遠に)守ることのできる侯王(各地の統治者)が居たとしたら、それは万物が自ずから賓客として迎えられるようなところになろう。天地はともに一体となり、そして甘露を下している。こうしたことは人民に命令をしてやらせるのと同じようには行かない。 王侯は天下の民を統べる存在であるから、その存在は小さなものではない。確かに王侯は大きな力を持っている。しかし、それは本来の人の姿である「樸」と比べて尊いということでもない。王侯が大きな存在であるというのは、世界の人々がそこに帰属しようとするからである。そうなれば、あらゆるところの人々が税を献じる。つまり天下の人々がそのままに税を収めてくれる大事な「客」である「賓客」となるわけである。そうしたことを「もし、よくその国を守ることができる侯王(各地の統治者)が居たとしたら、それは万物が自ずから賓客として迎えられることになろう」としている。この一文の意味するところは、統治者は無為であれば、民は自ずから統治者に帰属するということである。それはまさに天地が虚静でなければ陰陽は適切に変化できないのと同じである。そうでなければ陰陽の二気は適切に一体化することができない。つまり陰陽の変化は虚静の変化に機に応じて一体化するのである。陰陽の気の一体化とは虚静の昇降でもある。つまり天地は虚静によって一体化しているのである。陰陽は虚静によって変化し、陰陽の二気は虚静によって昇降をする。こうした虚静の理が得られたならば、気が活性化されて陰陽の気は一体となる。「甘露」が下ることがないのは、王侯と天地とが一体となってないからである。王侯は天地と一体となって、その虚静を得る。虚静の理を得るわけである。これがつまりは「無名の樸」を得るということである。これをして天下を治める。仁や義の実践は、それを言われて行われるものではない。道の徳が変化をして仁義が実践されていれば刑罰を行う必要もなかろう。天下の民は賢愚、貴賤の違いがあっても、どんなところにも及んでいる天理からすれば、天理との関係性において親疎や遠近があるはずもない。つまり道の実践(至道)が常に真であり、それの重要さは統治をしようと意図することがなく、自ずから国が治まっているところにある。人の心がそうであるべき理とは、期せずして自然のままであることにある。そ

宋常星『太上道徳経講義』(32ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(32ー2) 道は常に名を有することはなく(無名)、使い物にならず(樸)、取るに足りないもの(小)であるから、誰もそれをあえて使おうとはしない(臣)。 天が生まれ、地が生まれ、人が生まれ、物が生まれることが造化の根本である。そしてそうしたことを「道」という。それは変わることく、滅びることもない。一定の理によって続いているので「常」と称される。またその働きは考えの及ばない程のものでもあるので、それを「名」付けることはできない。陰陽はいまだ分かれておらず、全体はそのままに保たれている。これが「樸」である。それは成長しきっていない木や、まだ発芽していない種のようなもので、それがどのような形になるのかは分からない。つまり無極の本体の状態にあるということであり、混沌とした状態が保たれているのである。まさに「道」とは「名」も形もないし変化もしないで、何時もそのままに存している(常)。それを見たり、聴いたりすることはできず「名」前を付することもかなわない。ただそうであっても、全く何も無いというのではない。それは思考の及ばないもので、存してはいるが、一定のきまった形を有しているのでもない。渾然としていて、すべてが含まれている。そうしたものが「道」なのである。そうしたものが「常」と称されるのである。これは「無名」なるものであり、これは「樸」なるものでもある。「常」なるものとされるのは、大道が悠久で不変のものであるからである。これが「無名」とされるのは、大道が(人の捉えることのできない)微妙な機によって動いているからである。これが「樸」とされるのは、大道において混沌が完全に保たれているからである。「樸」とは混沌であり無名であるということで、またそこには万物の生成の理がある。そこには万物生成の理が有されていて、天地の造化の根元が含まれている。大道は「小」とされるが、それはその働きが微細で捉えることのできないからである。「衆妙の門」とされる大道は非常に微細なところでも働きをしている。天地の万物は、全てこうした「無名」であるところの「樸」によって生成変化をしている。その大きさは人の考えを越えており、その小ささも捉えることのできない程のものである。その尊いことも限りなく、比べるもののない程であるから、誰もあえてそれを(「臣」下として)使うことなどできはしない。そうで

道徳武芸研究 合気上げと呼吸力養成法〜大東流と合気道〜(4)

  道徳武芸研究 合気上げと呼吸力養成法〜大東流と合気道〜(4) 大東流の修業者は、小指にしっかりと力を入れて腕を取られない相手であれば「合気」を掛けることができないので戸惑ってしまう。また合気道では、小指に力を入れて全身の体重を掛けるような取り方をされると、どうすることもできなくなってしまう。こうした現象を形式的に言うなら、大東流では呼吸力を使うことはないし、合気道では(大東流式の)合気に依る必要はない、ということである。大東流のような「合気」の捕り方は本来は「御信用之手」として伝わっていたのであるが、これが「合気上げ」と呼ばれるようになって、単なる手首を極める技法から相手の意識をコントロールするような技へと変容して行くようになる。一方で合気道は合気の道を称しながらも、実際の業においては呼吸力を用いることにおいての矛盾を抱えることになる。

道徳武芸研究 合気上げと呼吸力養成法〜大東流と合気道〜(3)

  道徳武芸研究 合気上げと呼吸力養成法〜大東流と合気道〜(3) 先に述べたような親指と人差し指による「掴み手」は、八卦掌では龍爪掌として見ることができる。この掌形は八卦掌に広く用いられており、親指と人差し指を開いた形となる。つまり親指と人差し指を利かせる形を日々鍛錬するのが龍爪掌なのであり、同じ形は形意拳にも存している(一方で八卦拳では龍爪掌と並んで牛舌掌が知られている。形意拳では孫派がこの掌形に近いものを用いていて、孫禄堂によって改められたとされるが、牛舌掌についてはまた稿を改めて解説したい)。他には鷹爪拳でも、親指と人差し指を利かせるような鍛錬を行う。その典型が鷹が翼を広げたような姿勢で、この時に手の甲を下に向けるが、これも親指と人差し指を強調するためである。実際に翼を広げたポーズをとれば、五指の中で親指と人差し指に力が入るのが実感されることであろう。特に鷹爪拳は「掴み手」に工夫を凝らした武術として知られている。そこで重視しているのは「手首の関節を極められても、相手にコントロールされることのない掴み手」の発見にあった。こうした「掴み手」は他には蟷螂拳では蟷螂手がある。

道徳武芸研究 合気上げと呼吸力養成法〜大東流と合気道〜(2)

  道徳武芸研究 合気上げと呼吸力養成法〜大東流と合気道〜(2) 合気上げを成功させるには、小指の締めがなければならない。しっかり小指の締めを利かすことで、手首に加えられた力がダイレクトに肘に及び、それが肩から中心軸へと至ることになる。一方で、小指を締めなければ肘との連関が作れないので、手首を極めてもその力は肘で解消されてしまうことになる。合気道の呼吸法で、大東流と同じ両手取りの形をとりながら、全身が硬直するような「合気」が掛からないのは、肘で力が断たれて体軸にまで及ばないことに原因がある。よく演武などで「強く握って」と言われるのは、一見して不利な状況のもとに技を掛けるようであるが、本当は技を掛けるのに有利な方へと誘導しているのである。もし、合気上げで「合気」を掛けさせないようにするのであれば、親指と人差し指で強く相手の腕を掴んで、小指には力を入れないようにすれば良い。こうした「掴み手」は中国武術でも蟷螂拳や鷹爪拳に見ることができる。

道徳武芸研究 合気上げと呼吸力養成法〜大東流と合気道〜(1)

  道徳武芸研究 合気上げと呼吸力養成法〜大東流と合気道〜(1) 両手を取らせて、それを上げる鍛錬法を大東流では「合気上げ」、合気道では「呼吸(力養成)法」と呼んでいる。つまり、この鍛錬によって大東流では「合気」を養うとしており、合気道では「呼吸力」を得るものとされているわけである。かつて大東流の大名人のもとを、その弟子である大学教授から紹介された芸能関係者が訪れた。この頃、弟子の大学教授は、師を広く世に知らしめようと小説家や学者、マスコミ人、スポーツマンなど多くの人を「紹介」していた。かの芸能関係者もその一人で、その時には時代劇などでも知られた女優を伴っていた。この時、大名人は彼の女優に手を取らせて「合気」を掛けようとするが全く掛からなかったという。芸能関係者によると後にくだんの大学教授からは「先生に恥をかかせた!」と叱責の電話があったとか。叱責云々は余談であるが、合気道をやっていた女優は、呼吸法の時と同じく軽く腕を取ったために、大名人といえでも「合気」を掛けることはできなかったのである。

宋常星『太上道徳経講義』(32ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(32ー1) 大道には「名」はない。それは究極的な「理」であり、一定の形を有してはいないとされている。それは小さいということもできないし、大きいということもできない。そして、その大きなことは、それを測ることができない程であり、その小さなことは目に見えない程である。こうした「名」も無く形もない思考の及ばない存在である大道には造化の働きがある。適切な機により世界を循環をさせることはあらゆる存在の「先」にあ(ってあらゆるものの変化を導いてもい)る。あらゆる法則に偏ることなく、(物質的世界である)天地の外に存しているが、その働きは天地の中に及んでいる。大道の働きを見ることができないからといって、大道が働いていないところなどはない。大道が何かを作っている様子を見ることはできないが、大道によって作られていないものなどはない。そうであるから大道は天地の本であり、万物の宗でもあるのである。川の流れが海へと注がれているを見ることができる。それは道そのものといえよう。あらゆる流れが(道という)一つのところに帰している。これは動も静も一つに帰するということであり、内も外も違いがないということであって、つまり天地は(それぞれの存在の持つ働きである)その徳を一にしているのである(あらゆる存在の働きは「道」という「一」つのところから生まれている)。(あらゆる存在が)大道と根本において一つであるとは、つまり(大道から現れたのが)天地は大道と一つでもあるわけである。人の行いを人為というが、これは未だかつて天地の間で行われなかったことはない。天地は天地の働きをして、それが大道の働きでなかったことはない。天地は天地であるから天地なのであり、大道は大道であるから大道なのであるが大道はまさに道の帰するところなのである。それは何かによってそうなるのではなく、「中」である天と地が自ずから大道において一つになるということである。こうしたことは人にあって、あらゆる体の働きは「自己」において一つに帰しているのと同じである。またそれは自分の真我に帰することでもあり、真我とは自然そのままでもある。この章で老子はまさにこうした「止まるを知る」ということを教えている。これが分かるような優れた人士はよくよくそれを体得して頂きたい。ここで示されている「止まる」とは、まさに道に止まることであって、ただ

宋常星『太上道徳経講義』(31ー8)

  宋常星『太上道徳経講義』(31ー8) 多くの人が殺されれば、悲しみの涙が流れることになる。戦いに勝つとは、つまり葬礼を行うということなのである。 「多くの人が殺され」る。これは軍事を用いれば当然のことである。もし八千の敵を殺し、八百の見方が殺されたなら、それは戦いには勝つことができたわけであるが、生き残った人の心は荒(すさ)んでいるし、死体は野に満ちて、天地の和気は乱されている。優れた人物(君子)は軍にも慈しみの心を持ち、民を愛していて、これまで戦争において深く悲しみ嘆く心を持たないことはなかった。もし多くの敵を倒して勝利を得たなら、これは吉というべきであろう。反対に葬礼は、あえて戦いに勝ったことを良しとしないもので、戦争を輝かしいものとは認めないものである。それは止むをず戦って勝ったに過ぎない。結局のところ人は戦うことなく、平安で楽しく居られることが大切なのである。この章では特に「左」の道を重要としている。世の人を教え戒め、まさに人々が「君子の器(優れた人物を生み出す道具)」を持てるようにしようとする。「左」を尊んで「右」を尊ぶことはない。自分で戦いに死するような道を選ぶことなく、優れた修行をして、欲望を鎮め、好き嫌いにこだわらず、争うこともない。名誉や利益を求めず、是非にこだわらない。こうしたことを実践している人でいまだかつて(有為の道である)「右」を良しとした者は居ない。どうして自分に勝つことができないで、他人に勝つことができるであろうか。こだわることなく静かに居て、相手を殺すのではなく、自分の欲望を殺す。こうしたことにおいて(無為の道である)「左」を尊いとすることのなかったことがあったであろうか。これを天下国家に用いることにおいて、いまだかつて(自然に帰ることの働きとしての)「左の器」でなかったことがあるであろうか。こうしたことはよく知られている「左」を尊いとする道である。この道は生涯用いられるべきものである。 〈奥義伝開〉最後に軍事は殺人であることを改めて指摘している。つまり「聖なる戦い」などは無いということである。世界の多くの戦没者を悼む施設が一方で「戦勝」を賛美する施設でもあることは憂慮すべきであろう。そして一見して「戦勝」によって有利な地位を得たと勘違いしている人たちも長い時間で、諸事を俯瞰すれば、それが誤りであることに気づくであろう。これは歴史

宋常星『太上道徳経講義』(31ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(31ー7) 吉事は「左」を適当とする。凶事は「右」適当とする。そうであるから将軍は「右」に居て、葬礼の場所にあるのである。 先の文章を詳しく見てみると、「優れた人物(君子)として存している者は「左」を良しとする」とは、そうした人物は(争ったりすることなく)何事もなくて無事で居るということである。もしこれが軍事を用いる人であるならば、これは「右」を尊いとすることになる。ただ優れた人物が軍事を用いる場合は、本来的には優れた人物は「左」を良しとするのであるが、この場合は止むを得ず「右」を尊いとすることになる。つまるところこの世のあらゆる物、あらゆる人にあって、全てに文武、尊卑がある。およそ吉事は全て「左」を良しとする。およそ凶事は全て「右」を良しとする。こうしたことは不変の理であるから、将軍は「左」に存することになる。しかし(作戦を考える)上将は「右」に存している。どうしてなのであろうか。それは将軍は単に戦って勝つことを良しとするだけであるから「左」を吉位とするのであり、敵に勝つことが吉となる。そうなると将軍は「左」に存することになる。上将は全軍を指揮して国家を守ることを任としているので「右」は凶位となるので「左」に位置する。全ての兵の武器は、戦いにおいて凶器となる。これを将軍は吉とするが、上将は吉とすることができない。そうであるから(戦いの場ではなく)葬礼に自らを置くことになる。そうすることで殺人を美化することを拒んでいるわけである。つまり「とらわれのない心」で居ることを良しとしているのである。もし止むを得ず軍事を用いるとしても、けっして殺人を肯定することはないのである。 〈奥義伝開〉将軍は軍事行動をとる者、上将は作戦を立てる者として、作戦段階で戦いを阻止できる存在である上将を道に近いものとする。これはシビリアンコントロールの重要性を説くものである。戦いが現実には生じるものであることは否めない。しかし、これを政治レベルで治めることができるならば、それは好ましいと老子は考えていた。これは全く現代でも変わらない視点であろう。老子の教えは二千数百年後には一般的にも認められるようになって来たわけである。老子はここで戦没者の慰霊を行うことが、戦争を拒否する道につながるべきであることをも示唆している。しかし現在、多くの国では「慰霊」を騙って戦争を賛美し

道徳武芸研究 形意燕形と陳家金剛搗堆(4)

  道徳武芸研究 形意燕形と陳家金剛搗堆(4) 形意拳では左右の動きを伴う拳も少なくないが、燕形拳が右の動きしかないのも、陳家太極拳の金剛搗堆と共通している。これは相手を引き倒す時に、瞬時に強い力を発しなければならないので、どうしても利き腕である右手でなければならないからである。燕形拳ではこの技に「燕子抄水」の秘訣を伝えている。これは水面すれすれを燕が一瞬に飛び去ることがイメージされている。つまり瞬時に身を沈めるのが相手を引き倒す時の秘訣であるということである。ただおもしろいことにこの秘訣のイメージは体を大きく沈めて後ろから前へと一気に進める陳家の金剛搗堆の方が近い動きになっている。燕形拳は形意拳の全体的な特徴である動作の表現が細かいために、こうした拳訣のイメージが、外的にはあまり明確には見ることができない。「形」としての表現には限界がある。重要なことはその中に含まれている教えをよく理解することである。ただ外形だけを繰り返しても得られるものは少ないであろうことを知らなければならない。

道徳武芸研究 形意燕形と陳家金剛搗堆(3)

  道徳武芸研究 形意燕形と陳家金剛搗堆(3) 陳家太極拳では「必殺技」ともいうべき金剛搗堆が何度が套路の中に出てくるが、これは如何に陳家でこれを重視していたかの証左となり得るものである。一般に楊家太極拳は陳家から出たとされるが、もしそうであるならこうした「必殺技」が完全に抜け落ちることは考えられない。一方で他の技は多くが類似した動作として残っていることからしても、陳家で最も優れた技ともいうべき金剛搗堆のみが消えてしまっているとすることは不可能である。それはもとの太極拳には金剛搗堆がなかったと考える方が妥当であろう。陳家では太極拳に金剛搗堆を加えて独自の套路を編み出したのである。一方で楊家は太極拳そのままを受け継いだ。この太極拳の套路の完成度はひじょうに高いもので、楊家でもほぼ同じ套路が受け継がれているし、楊家から派生した武家、呉家、孫家の太極拳もほぼ同じであり、加えてそれらには全く金剛搗堆のあった形跡を見ることはできない。

道徳武芸研究 形意燕形と陳家金剛搗堆(2)

  道徳武芸研究 形意燕形と陳家金剛搗堆(2) 陳家太極拳の金剛搗堆は、相手を倒して踏みつけるところまでが套路になっている、一方、形意拳の燕形拳は相手を上に崩して、それが充分でなければ空いた中段に突きを入れるようになっていて、投げた後の攻撃は形としては表現していない。そこでおもしろいのは陳家の「拳」の扱いで、最後は拳を下に打ち下ろし、それを掌で受けている動作のある点である。この動作の意味はそのままでは理解が難しいが、燕形と合わせると、それが投げが充分でない時の突きであることが推測できる(この変化は小架により明確に示されている)。陳家では最後に倒れた相手を踏み込むことで決定的なダメージを与えることを重視したために、拳の動作もその動きにつられて下に打ち込む形になったが、それは中段を突く燕形拳の方が実際に近いものなのである。ちなみに燕形拳でも拳を掌で受ける動作を含んでいる。形意拳の十二形はいうならば秘訣の集成であるので、よく口伝を得て練らなければ意味のないものとなりやすい。