宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その3

 宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その3

「戒力」とは、悪行を断つことをいう。修行者は、はたしてよく内に心を戒めることができているであろうか。外に身(行動)を戒めることができているであろうか。ここに「戒力」を用いれば、自ずから勝つことができるのである。つまり天より戒めを守る人に戒の神などが遣わされて、その身を守るのである。あらゆる行動において、あらゆる善なる縁が結ばれ、起居坐臥にあっても、全く悪い行為がなされることがなくなる。こうした戒を守ることが久しければ、道の修行をしていない人でも、道に入ることができる。これはまさに「戒力」をして自ずから勝つということになる。昔しより今に至るまで究極の境地を得た人で、「戒」を修せずして道を得た者は居ない。今、道の修行をしている人で、初心の人は、三戒や五戒を守っていることであろう。また初心十戒や九真妙戒を守っているかもしれない。もし「戒力」がよく堅固であれば、千二百の善行を成就して、更には「持身の戒」「観身の戒」を修する。百八の戒、三百の大戒を修するわけである。こうして次第に戒を進んで行けば、道の修行は必ず進んで成就するものである。これが「戒力」をして自ずから勝つということである。諸々の天の神は善を守り、諸々の悪神も敬って守ってくれる。こうした人は、まさに「強」いということができる。

「進力」とは、けっして精進(適切な努力)を怠ることのないことをいうものである。精進をしていると、不思議な程に集中できるし、初心を貫くことも可能である。それを例えるなら自分を卑下してあえて目的とするところを高いところにあるとするようなものである。また、あえて目的とするところが遠くにあるように考えるようなものでもある。そして、しっかりと確実に歩みを進める力を持つのである。こうしたことは「六行」とされる。あるいはまた「六度」とも称される。一は布施、二は持戒、三は忍辱、四は勤慎、五は静定。六は智慧である。もし、これら「六行」をよく行ったならば、道の徳は日々に新たに開け、不変の真(真常=大道)はおのずから得られる。まさにこれが「精進力」といわれるものである。

「念力」とは、念の動きを止めることをいう。修行に縁のある人であれば(道の修行への)「念(おもい)」が生じれば、そこから悟りへの道に入ることができるものである(人は本来、善なる心を持っているので常に道と一体となろうとしている)。しかし、そうでない人であれば(道の修行への)「念」が生じてもそれに気づくこともできない。ただ何も思わないままとなってしまう。あるいは(邪な)「念」に引かれて邪悪な道に迷い入ってしまう。貪りの「念」が生じてそれに捕らわれてしまい、煩悩は熾烈を極めることになる。こうして小事に捕らわれて、大道の根本を見失ってしまう。そうであるから大道の修行にあっては人をして始めに「念」を止めさせて、心に不適切な「念」の生じないようにさせるのである。今、修行をしている人は、はたしてよく「自性の真常」を理解しているであろうか。「本心の正覚」をよく分かっているであろうか。取ることもなく、捨てることもない。人は空であり、法も空である。つまり心の外に法はなく、法の外に心はない、のであり、こうして行をすると不適切な「念」の生じることはない。もし、そうでなければ、好ましくない「念」が生じて、大道と自己の乖離が生まれたり、制御できない心の働きによって気落ちが乱れてしまったりする。世の修行では、いろいろな雑「念」を排除する方法が生み出されているが、これらは全て妄想によるものである。つまり「念」への捕らわれを脱するために、特定の方法への執着を促すことになってしまっている。雑「念」に捕らわれないようにするためには、ただ僅かな雑「念」でも生じた時には、それをよく自覚してただ見つめる。こうしたことができるのが聖賢であり、できないのが凡夫である。このやり方は、極めて強力な弩のようなもので、その威力を最大限に使うには一瞬の機を逃さないようにしなければならない。また大型の船であっても、それを適切に操作しているのは狭い司令室である。そうであるから「返還造化の機(自分の本来的な心身の働きを取り戻して大道の生成の働きと一体化する)」は、つまりはごく僅かな「念」が生じた時に、それを見つめるというところにあるのである。そうなれば「念力」によって自然に勝つことができるようになるのであるから、これを強いとすることもできるであろう。


〈奥義伝開〉ここでは「十力」の内、「戒力」「(精)進力」そして「念力」について述べられている。ここで重要なことは「念」であろう。大道への覚醒のための「機」はある種の善なる「念」の発動にある。それをうまく捉えて、善なるものへの認識を深めて行く。内丹ではこれを「陽光三現」とする。小さな「悟り体験」を三回くらい経れば一定の深い認識が得られるというのである。加えてここでは雑念が出た時には、これを単に見つめるだけで、絶念を排除するようなテクニックを用いるべきではない、としている。そうした方法は雑念を雑念によって抑え込もうとするようなもので、結果的には意味がないからである。静坐では人は生きている限り思考を止めることはできないので雑念そのものを排除する必要はないと教えている。ただそれを見つめていれば、心は自然に落ち着いて来る。


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