宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その2

 宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その2

聖人が相手に勝つ「力」には十の用い方がある。一は信力、二は捨力、三は戒力、四は進力、五は念力、六は定力、七は慧力、八は智力、九は道力、十は徳力である。

「信力」とは、信ずることで、これは心を起こした時に発動される。大道を尊び信じ、まったく疑うことのないことをいう。そうであれば道の修行は必ず円満に終えることができるであろうし、天上界で聖なる地位に就くことも可能となろう。全ての至聖、真仙、究極の悟りを得た者は、いまだかつて始めに「信」の力を起こすことなく成就を得た者は居ない。すべては「信」じることから始まったのである。そうであるから俗を超越して聖なる境地に入るには、必ず信力によって修行がなされなければならない。初めから終わりまで、行の成就を迎えるまで必ず「信力」の二字を離れることはできないのである。「信力」こそが真に修行を成就させるための「種」であり、道の修行に入るための根本はここにある。もし「信力」がなければ、修行を成就させることは難しい。ここで老子は「自ずから勝つ」としているが、それには「信力」によらなければならない。

「捨力」は得られる物をも捨てる力である。「捨力」の修行には三つある。一は大捨、二は中捨、三は小捨である。「大捨」とは心身を共に捨てることで、一切を忘れ、虚空と一体となることで、何かが得られるどのようなことも放棄されて、けっして貪ることがない。これが「大捨」である。「中捨」は修行によって布施が得られても、貪りの心を起こすことなく財貨に執着しないことで、これが「中捨」である。「小捨」は、行をして得られた布施を功徳と思うもので、他人を利することで自分が得になると考える。これが「小捨」である。ただこれらは「大捨」「中捨」「小捨」の違いがあるものの、もし道の悟りを得られるような大いなる才能(大根)があり、大いなる適性(大器)を有している人であれば、相手も自分をも共に忘れて、色(存在)と空とが一つとなっているので、こうした三つのレベルの存することはない。そうであるから修行者はこうした「力」に依らないで、自ずからにして勝つことができるのである。道の徳を日々に深めて、煩悩から日々に離脱する。つまりこれが「強」いということなのである。


〈奥義伝開〉老子は勝つことができるのは「力」があるからである、としているが、修行において「勝つ」つまり「成就」を得ることのできる「力」を宋常星は十あげて説明をする。どれも比較的オーソドックスな精神的な修行の眼目と言い得るものである(ただ、これらは老子の本文の解釈とは直接には関係してはいない)。第一の「信心」は、仏教などでは「菩提心を発する(発菩提心)」とされるもので、修行しようとするシステムを正しいもの、有益なものと信じることである。どのような修行でもこれがなければ始まらないことはいうまでもなかろう。第二の「捨力」は、太極拳では「己を捨てる(舎己)」とされるもので、鄭曼青などは特に入門時の注意すべき心得としていた。先ずは虚心坦懐に教えを受けるということで先入観を捨てるのである。


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