宋常星『太上道徳経講義』(33ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(33ー1)

天地の化育は、その道をただ行うだけであるとされている。聖なる王の明徳は、その心をこだわりから解放させる。道から解放されるとは、ただ陰陽によるということである。もし天地が陰陽で成り立っていないならば、そこに道を実行することはできない。心から解放されるとは、誠明であるということである。聖なる王は誠明でなければ、その心を解放することはできない。そうなれば聖なる王は個人の心から解放されて天地、万物と同等な存在となる。つまり聖なる王は、人々を解放された心である「一なる心(大道と一体となった心)」をして観ているのである。万物を一体として観ているわけである。穆(つつしみ)を常に実践していれば、心は個人のこだわりを脱して、あらゆる存在も異なるものとは見られない。本来的に聖俗、大小の別は存していないからである。あらゆる人々を「一なる心」で観たなら、ただ一であり他のものではあり得ない。天徳には「私」は無く、それは耳や目をして聞いたり見たりして得られるものでもない。耳や目を通して聞いたり見たりしたことは天徳の良知ではない。誠明の実理ではない。目で見えるのは形のあるものであり、形のないものは見ることはできない。耳で聞くことができるのは音のするものであり、音のないものは聞くことができない。こうしたものは耳や目を通して得られるが、それは単に「外」を見たり聞いたりしているのであって、「内」を見たり聞いたりしているのではない。そうであるから、こうしたことによって、自然に知ることができ(自知)たり、自然に勝つことができ(自勝)たりすることはない。実際に見たり、聞いたりして得られた個々人の認識は決して一つではない。それは、これまで死んで亡くならなかった人は居ないのと同様に明白なことである。欲望を脱して居る人は、先ずは自分へのこだわりから脱している。自分へのこだわりから脱すると、天下でも、国家であっても、それを脱していないことはない。もし、そうでなければ、目で見たり、耳で聞いたりしたことにとらわれてしまうことであろう。「名」にとらわれたら「実(本質)」を見失ってしまう。心身であっても家、国、天下でも、これらは無為にして治まるものである。

この章で老子は「自分を脱する」ことが、天下において実践されなければならないと教えている。古くから聖賢は、こうしたことを「内」では明らかにしていたが、「外」には明らかにすることはなかった。「外」では明らかにあれなければ、それは他の人に明らかとはならない。万物は全て自分の中に備わっている。そうであるから先ずは「自分を脱する」のであるが、そしてその後に内的に(気持ちの上で)「他人から脱する」わけである。そして最期には実際に「あらゆる人々から脱する」ことになる。それは「あらゆるものから脱する」ことでもある。こうしたこだわりから脱したならば、聖人はその「性(本来の自分の心の働き)」からも脱する(個人を超えて大道と一体となる)。ここに万物の道は自己に等しく備わることになるわけである。


〈奥義伝開〉宋常星はここで老子は「心の解放」について論じているとして解説をしている。ただ既存の老子のイメージにとらわれることなくテキストを読むと、そうではなく論理的に考えるとはどういうことか、が語られているように思われる。始めには「知っている」ということを、努力して知り得たこと(智)と、当たり前として知っていること(明)の違いとして指摘している。当たり前として得た知識は何らかの権威によっているのであるが、その多くは後に否定されることもある。最近は「査読」を経た論文云々を重視する人が居て、それが正確無比なものと誤解している場合も多いが、査読を経て専門誌に掲載された論文は単に「学術的に検討に値する」というだけのものであって、その正しさを証明するものではない。査読を経たある意味では学術的に優れた論文ほど後に反論や訂正の必要を示す多くのこれも査読を経た論文の批判を受けることになる。そうして徐々に「定説」が形成されるわけである。個人の努力によって得られる「智」にも限界はあるが、当たり前とされる「明」も一定したものではないことを老子は教えている。


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