宋常星『太上道徳経講義』(31ー8)

 宋常星『太上道徳経講義』(31ー8)

多くの人が殺されれば、悲しみの涙が流れることになる。戦いに勝つとは、つまり葬礼を行うということなのである。

「多くの人が殺され」る。これは軍事を用いれば当然のことである。もし八千の敵を殺し、八百の見方が殺されたなら、それは戦いには勝つことができたわけであるが、生き残った人の心は荒(すさ)んでいるし、死体は野に満ちて、天地の和気は乱されている。優れた人物(君子)は軍にも慈しみの心を持ち、民を愛していて、これまで戦争において深く悲しみ嘆く心を持たないことはなかった。もし多くの敵を倒して勝利を得たなら、これは吉というべきであろう。反対に葬礼は、あえて戦いに勝ったことを良しとしないもので、戦争を輝かしいものとは認めないものである。それは止むをず戦って勝ったに過ぎない。結局のところ人は戦うことなく、平安で楽しく居られることが大切なのである。この章では特に「左」の道を重要としている。世の人を教え戒め、まさに人々が「君子の器(優れた人物を生み出す道具)」を持てるようにしようとする。「左」を尊んで「右」を尊ぶことはない。自分で戦いに死するような道を選ぶことなく、優れた修行をして、欲望を鎮め、好き嫌いにこだわらず、争うこともない。名誉や利益を求めず、是非にこだわらない。こうしたことを実践している人でいまだかつて(有為の道である)「右」を良しとした者は居ない。どうして自分に勝つことができないで、他人に勝つことができるであろうか。こだわることなく静かに居て、相手を殺すのではなく、自分の欲望を殺す。こうしたことにおいて(無為の道である)「左」を尊いとすることのなかったことがあったであろうか。これを天下国家に用いることにおいて、いまだかつて(自然に帰ることの働きとしての)「左の器」でなかったことがあるであろうか。こうしたことはよく知られている「左」を尊いとする道である。この道は生涯用いられるべきものである。


〈奥義伝開〉最後に軍事は殺人であることを改めて指摘している。つまり「聖なる戦い」などは無いということである。世界の多くの戦没者を悼む施設が一方で「戦勝」を賛美する施設でもあることは憂慮すべきであろう。そして一見して「戦勝」によって有利な地位を得たと勘違いしている人たちも長い時間で、諸事を俯瞰すれば、それが誤りであることに気づくであろう。これは歴史が証明していることでもある。しかし、人々の命を盾として自分たちの利権を守りたいと思っている収奪者たちは「戦勝」を好ましいものと賛美して、決して軍事を否定することはない。老子は既にこうした欺瞞をも見ぬていたようである。


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