宋常星『太上道徳経講義』(32ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(32ー3)

もし、よくその国を(永遠に)守ることのできる侯王(各地の統治者)が居たとしたら、それは万物が自ずから賓客として迎えられるようなところになろう。天地はともに一体となり、そして甘露を下している。こうしたことは人民に命令をしてやらせるのと同じようには行かない。

王侯は天下の民を統べる存在であるから、その存在は小さなものではない。確かに王侯は大きな力を持っている。しかし、それは本来の人の姿である「樸」と比べて尊いということでもない。王侯が大きな存在であるというのは、世界の人々がそこに帰属しようとするからである。そうなれば、あらゆるところの人々が税を献じる。つまり天下の人々がそのままに税を収めてくれる大事な「客」である「賓客」となるわけである。そうしたことを「もし、よくその国を守ることができる侯王(各地の統治者)が居たとしたら、それは万物が自ずから賓客として迎えられることになろう」としている。この一文の意味するところは、統治者は無為であれば、民は自ずから統治者に帰属するということである。それはまさに天地が虚静でなければ陰陽は適切に変化できないのと同じである。そうでなければ陰陽の二気は適切に一体化することができない。つまり陰陽の変化は虚静の変化に機に応じて一体化するのである。陰陽の気の一体化とは虚静の昇降でもある。つまり天地は虚静によって一体化しているのである。陰陽は虚静によって変化し、陰陽の二気は虚静によって昇降をする。こうした虚静の理が得られたならば、気が活性化されて陰陽の気は一体となる。「甘露」が下ることがないのは、王侯と天地とが一体となってないからである。王侯は天地と一体となって、その虚静を得る。虚静の理を得るわけである。これがつまりは「無名の樸」を得るということである。これをして天下を治める。仁や義の実践は、それを言われて行われるものではない。道の徳が変化をして仁義が実践されていれば刑罰を行う必要もなかろう。天下の民は賢愚、貴賤の違いがあっても、どんなところにも及んでいる天理からすれば、天理との関係性において親疎や遠近があるはずもない。つまり道の実践(至道)が常に真であり、それの重要さは統治をしようと意図することがなく、自ずから国が治まっているところにある。人の心がそうであるべき理とは、期せずして自然のままであることにある。そうしたことを「人民に命令をしてやらせるのと同じようには行かない」としているのである。


〈奥義伝開〉ここでは「侯王」(侯王は王によって各地を治めている統治者で、「王侯」は国王と統治者のこと)について述べられている。人が「人」そのままである状態は自然のままの「樸」であるが、その人がある地域を統治するようになれば「侯王」という「名」が付せられる。そうなると自然のままである「樸」は失われてしまう。一方で老子は、その統治が完全に行われるには、統治者が「無為」を実践していなければならない、とする。そうなれば自ずから民はその統治下に入る(賓)し、経済活動も円滑に行われ得る(甘露)と言うのである。ここで老子は「名」を付して「侯王」という「器」が設けらることの利点をも、甘露が降るとして説いている。そして、それは「器」が限りなく「樸」に近い状態でなければならないとする。これは「嬰児」が道に近いとする考え方と同じである。完全ではないが、最も理想的な状態を老子は求めている。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)