宋常星『太上道徳経講義』(32ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(32ー4)

物事を規定しようとするなら名称を付することになる。名称が既に有れば、それ以上の情報をそれに加えることはできない。これが分かっていれば問題はない。こうした道が天下に行われているのは、川の水が海に注ぐようなものである。

「無名の樸(「名」を付される前のその存在そのままのあり方)」ということを、よく考えてみるに、それは天地の始めであり、形を有することもなく、形がないというのでもない。そこは造化の根元であるといえよう。そこには太極の本質であるといえよう。そこは本来的には「道」とされることもないし、特定の「名」を持つこともない。「規定」するとは一定の概念で括られるということである。万物は既に存している。聖人は「規定」を作って万物の秩序を明らかにする。こうしたことにおいて強いて「名」を付するとすれば、本来的な姿である「樸」は失われて、特定の使い方を持つ「器」となってしまう。そうであるから「物事を規定しようとするなら名称を付することになる」とあるのであり、そうなればその本来の姿である「樸」は失われてしまうことになるのである。物事に特定の「名」が付されている。天地万物、方円曲直、巨細小大、虚実有無、これらは全て特定の働きを持つ「器」でないものはない。「器」でないものには「名」はないからである。「名」を決めてしまえば、それ以上のものはそこには存しないことになる。「一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」(第四十二章)のであるから、形を持つ「万物」にはそれぞれに「名」が付されている。しかし、一定の利用が認められた「器」にはそれ以上を求めることができない「限界」がある。実際に存在が「名」によって限定されることはないが、人の意識において「名」はその働きを限定するものであるから、結果として「器」としのあり方を「名」は限定してしまうことになる。「名」と「器」はそれぞれが限定をするものである。そうした限定をしないのであれば「物」にこだわる必要もなくなる。こうしたこだわりを捨てたところに「道」がある。そして「物」そのままで「道」(という包括的な概念を)」も捨てる。そうした心の境地が「無名の樸」なのである。そこでは(全てが自然のままに働いていて)何らの問題も生じない。道を知る人は、けっして特定の用い方のできる「器」を利用しようとはしない。それは本来の姿である「樸」を害しているからである。「名」にこだわると、その物の本当の姿が分からなくなってしまう。つまり「名」にこだわってはならないのであり、これが「名」によって限定されていることを知るべきということなのである。こうしたこだわりを「無名の樸」をして生じなくさせる。そうすれば問題となるようなことは生まれない。そうであるので「名称が既に有れば、それ以上の情報をそれに加えることはできない。これが分かっていれば問題はない」とあるのであり、これが「限定のあることを知る」ということなのである。例え王侯でなくても、あるいは貴い身分であっても、卑しい身分であっても、男でも、女でも、全てにおいてこうした「名」による限定のあることの重要性を忘れてはなるまい。王侯がこれを知っていれば、無為をして国を治めることであろう。何も言わないでも天下は(無為をして治まるように)改まる。こうしたことが王侯が「名」による「限定」のあることを知ることで現れる事象である。貴賤賢愚、男女夫婦において、もし「名」による「限定」のことが分かったならば、社会的な活動において、必ず人として行うべきこと(義)と欲望の実現(利)との間において、正しい行動をとることができるであろう。それぞれの物事にあって自分の欲に溺れないのは、それ以上(の欲)を加えることがないからである。それ以上を加えないということが、天下に実践されたなら、その天下において道へと帰さないことなどあるであろうか。それは全て道へと帰することになる。それを譬えて言うなら大小の川の水が海へと流れ込むようなものである。つまり「道」は天地の間に行われているのであり、それの見られないところはないし、存していないところもない。つまり「道」とは「器」でもあり、こうした「器」の有るところには「名」も存している。「道」を捨てて「器」があるわけではないし、「器」がなくして「名」を求めることもできない。また「器」は「樸」より生まれる。「名」は「器」より生まれる。つまり「道」は万物の本であることを知らなければならない。そうであるから「それは道が天下に行われているのは、川の水が海に注ぐようなものである」とあるわけである。この章で老子は万物は道に帰することを述べている。それは天下の人々に(自然のまま以上のことを)「加えることのない」ことを教えているのである。今日の修行者は、はたしてよく俗塵に染まることなく、万縁を放下して、無欲、無為の道を守ることができているであろうか。身を立てること清虚で、真を養い樸を抱いているであろうか。つまり自分の中の本来の心のあり方である「性」において天地は自然に合一し、心には甘露が自然に降り注いでいるのである。こうしたことが自然の機に応じて生じるのであり、これは求めようとしても得られるものではない。人に示そうとしても示せるものではない。心が静まれば、自然と「性」において天地(陰陽)はひとつになるのであり、それを意図的に行おうとしてはならない。自然にそうなるのでなければならないのである。そうしたことを「清静経」では「よく清静であれば、天地の尽くが自分へと帰する」としている。これはここで述べられているのと同じことである。


〈奥義伝開〉よく老子は単純に自然のままの「樸」であることを尊んだと誤解されているが、そうではない。「樸」はそのままでは何らの有用性をも持たいないのであり、それに「名」を付して「器」とすることで人々に利をもたらすものとなることをも認めていた。ここで「問題はない」と訳したのは原文では「殆(あや)うからず」とある。「名」によって「樸」の可能性が限定されることを知っていれば問題はない、ということである。つまり老子は「樸」に「名」を付した「器」を全く捨てて用いないということは考えていないわけなのである。問題なのは「名」を付すことで失われる「樸」の可能性である。


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