宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その1

 宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その1

相手に勝つのは力があるからである。自ずから勝つのは強いからである。

[相手に勝つのは力があるからである。勝つ者は強いのである]

「勝」つということは「内」的には「力」があるからであり「外」的には「強」いからである。一般的には相手に勝つことができる「力」は、覇王の持っているような誰も及ばない程の勇敢さと思っているかもしれない。また伍子胥(ご ししょ 春秋時代の軍人)の千斛(180キロリットル)もの鼎を挙げることのできる「力」であると思うかもしれない。これらは全て血気の「力」であり、人に勝つことのできる「力」である。こうしたことを「相手に勝つのは力があるからである」と言っている。もし聖人が力比べをしようとするなら、そうした「力」があるだけでは不十分であると考える。聖人は力比べをする前に既に勝っているのである。聖人は天地と一体であり、万物と一体であるので、生死とも一体となっている。道徳とも一心である。一瞬で時を超えて、瞬時にあらゆる時のことが分かる。壊れることも、滅びることもない。そうした聖人がはたして「力」だけに頼るのであろうか。


〈奥義伝開〉ここで宋常星は「力」ということにかなりのこだわりを見せて、以下延々と「力」について述べている。そのためこの解説では、この部分を八回に分けて掲載することにする。『老子』の理解ということからすれば、やや煩雑な感じもあるが、近世の中国で道の修行をする人がどのようなことを重要と考えていたか、がよく分かるであろう。ここで老子は、戦いに勝つのは「力」があるからであるとしつつも、「力」があれば必ず勝てるというものではなく、結果として勝つのは相手より「強」いからであるとしている。当然といえば当然であろう。つまり「力=強」ではないということである。つまり「勝つ者が強い」のであって「力がある者が強い」わけでは必ずしもないということである。中国では「武術に優れた者は打たれて死ぬ。水泳に優れた者は溺れて死ぬ」と言われているように、人は往々にして「力」のあるところで「勝つ」ことができないのである。


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